親鸞は多くの表現を残した。確かに、親鸞はすごい。ただほんとうにすごいのは、親鸞にそういう表現をとらせたものだ。そこに注目しないと、単なる偉人崇拝に堕す。なぜ「悪人」が救われるという表現をとったのか。そういう表現をとらせたものをこそ見ていかなければならない。そこで親鸞と自分とが、「横並び」の関係に立てる。親鸞は〈ほんとう〉を、そう表現したが、さてお前はどうなのかと問われる。この「さてお前は」が大乗仏教の魂だ。だから、まだ仏教は始まっていないのだ。自分からしか出発しないのだ。そこがまだ未開なのだ。仏教は「既存のもの」という幻想が破られなければダメだ。そうやって解体の亀裂が少しずつ入っていき、「当たり前」の牙城がことごとく解体され始めていく。