分からんで安心する

今朝のお朝事の和讃は、曇鸞さんの「世俗の君子幸臨し勅して浄土のゆえをとう 十方仏国浄土なり なにによりてか西にある」「鸞師こたえてのたまわく わが身は智慧あさくして いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず」だ。王様から、浄土はあらゆる方角にあると説かれているが、なぜ西にこだわるのかと問われ、曇鸞は、私は智慧が浅いので、よく分かりませんと答えたという伝説だ。この応答の仕方がぐっとくる。王様と曇鸞の意味空間が見事に乖離しているところが素晴らしい。まさに芸術だ。
人間には、分からんと言って不安になる意味空間もあるが、分からんと言って安心する意味空間もあるという話だ。曇鸞が、なぜ西にこだわるのかと言えば、あなたを助けるためだよと言いたいのだ。誰でもを救う仏法だが、それが「誰でも」から、「あなた一人」と限定されなければ救いにはならない。「西」とは「あなた一人」の象徴的表現だ。よい例が「親鸞一人」という表現だ。私一人を救うためだったのかと目覚めたとき、その一人は〈一人一世界〉へと爆発拡大する。つまり、「一切衆生としての一人」が誕生するのだ。死語の世界を、あたかもあるかのように説いたり、そんなものは無いのだと言ってみたりしているが、ほんとうのところは分からんのだ。その分からんに安心できるかできないかだけが問題なのだ。