死を知っているという傲慢から、どうやって解放されるか。みんな、死を知っていると思っている。それは噂でしかない。二人称、三人称の死でしかない。一人称の死は体験出来ない。体験出来ないにもかかわらず、死を知っていると思っているのは、知の傲慢だ。
12月号の「南御堂」(難波別院発行新聞)に蒲池勢至さんが書かれている文章に、池田勇諦先生の言葉を引いて、「信心を獲得した痛みが滅度に到るというこを、死を介して到る、といわしめる。痛みは懺悔であり、宗教的廻心である」「自覚そのものがもつ痛み、懺悔が『死を介して』と表現せしめてくる。自覚(信心獲得)という一点をもって、『死んだら』と言わしめるのである」と、御教示いただいたことを思い出す。」と述べている。難しい表現だと思うのだが、どう御教示いただいたのかが書かれていないので、よくは分からない。「信心を獲得した痛み」とはどういうことなのか、よく分からない。その「痛み=懺悔」とは何か。
小生の言う「知の傲慢」と関係があるようなないような。
まあそれはそれとして、現代人は、死を知っているかの如くに生きている。それは「偶然の生」から出発し、「必然の死」への物語だ。言わば「絶望の物語」だ。ただ、それをごまかして見ないように日常を生きているに過ぎない。「薄氷を踏む」という言い方があるが、まさにそれだ。日常は「薄氷」だ。その下には死がビッシリとこびり付いている。それが、「現実」だと思い込んでいるが、それは「現実」ではない。人間が思い込んでいる「絶望の物語」という固定観念である。だから、まだ救いがある。
その物語の書き換えが出来るからだ。「絶望の物語」から「阿弥陀さんの物語」へと。あなたが「死」だと思っているのは、「思っている死」であって、ほんとうの「死」ではない。だから「真宗は『死なない』宗教」なのだ。
それでは「阿弥陀さんの物語」とは何か。それは、自分の存在の秘密が解明されることと同時に成立する物語だ。自分は何のために生まれてきたのかという問いの解明と同時に成り立つ。だから、自分が開拓されること抜きには成り立たない。自分が自分のままで、答えを欲しがっても、それは与えられないのだ。「自分」というのも、一つの固定観念なのだから、まずはそれが解体されてからの話である。