普通名詞の南無阿弥陀仏から、固有の南無阿弥陀仏へ

「普通名詞の南無阿弥陀仏」は、私たちにすでに知られてしまった南無阿弥陀仏だ。だから、そんなものを人間は見向きもしない。掃いて捨てるほどの、膨大な南無阿弥陀仏が、転がっている。自分の名前もそうだ。自分の固有名詞としての名前は、自分で付けたものではない。他者から貼られたレッテルだ。他者が貼ったレッテルを「自分のかけがえのない名前」だと思い込んでいる。インディビジュアルを「個人」と訳すが、これは分割することができない最小単位という意味がある。これこそが自分の中の核だと。しかし、それが他者のレッテルだとなったら、自分が揺らぐのではないか。「あなたのほんとうの名前は何か」と問いかけてくるものがある。
先日、「普通名詞の南無阿弥陀仏」が「固有名詞の南無阿弥陀仏」に変わるとはどういうことかと聞かれた。それは、自分には、ほんとうの名前はないのだが、それが「固有名詞としての南無阿弥陀仏」と成ることによって、ほんとうの名前になると答えた。「自分」とは、文字通り「自の分」で、ある領域を表している。大雑把に見れば、身体を覆う皮膚の内側だけを「自分」と思っている。しかし、厳密に見ればそうではない。身体を身体として生かすもの、これを普通は「環境」と呼ぶ。水も空気も食物も、自分の身体に入る前は環境と呼ばれてるが、一旦自分の身体に取り込まれれば、自分の一部分になる。環境であっても、「自の分」だ。自分を生かすものも自分である。生かされている部分のみが自分ではない。生かすものも自分である。
 この両方の世界を「固有名詞としての南無阿弥陀仏」としていただく。それはインディビジュアルのように、自分の核心を特化するために、ある部分を削ぎ落とし、削ぎ落とし削ぎ落としして見いだす方向ではない。逆に、包摂し抱擁し受容されていく方向性だ。
ハナミズキの葉が、真っ赤に染まるのも「自の分」の一部分だ。まさに「環境」も私を生かす身体である。そうだ。身体も、「自分」にとっては環境である。私を生かす作用そのものだ。そうやって私のほんとうの名前を教えてくれるのだ。「南無阿弥陀仏」こそが、あなたのほんとうの名前だと。
それが人間の貼ったレッテルの世界を「相対化」してくれる。「相対化」されれば、人間界でどんなレッテルが貼られても、それに左右されることがない。ほんとうの名前を知っている安心感があるから、うろたえない。それは他者の世界と「断絶」してはいない。ただ「乖離」しているだけだ。
自分には自分のほんとうの名前を知る力が無い。向こうから、「南無阿弥陀仏」と迫ってきて、「レッテルの名前」を超えさせてくれるだけだ。人間界では、それを「無名」と呼ぶかも知れない。もし「無名」という言葉を使えば、「無名になれる安心感」だ。お前には、ほんとうの名前などない、そんなものを必要としない。そうやってレッテルの名前を剥奪して下さる。
ほんとうの名前をご存じなのは、阿弥陀さんだけなのだ。