昨夜、向こうから降りてきた。小生の言いたかったことが、言葉と成って降りてきた。それが「意味時(いみどき)」だ。人間の生きることのできる時間は物理的なものでなく、「意味時」だと。人間は、「時間」は物理的なもので、地球上のあらゆることはこれに支配されていると思っている。人間の観念ではあれこれ言えても、時間だけは誰が見ても間違いのない現象だと思い込んでいる。はしょって言うが、人間は物理的な時間を実は生きてはいない。いつも時間の残像を時間だと思っている。「いま」という時間はどんどん動いていくので、「いま」を生きられない。「いまいま」と思っているのは、過去になってしまった「いま」を、「いま」だと思っているに過ぎない。人間は過去と未来とに引き裂かれた「いま」しか生きられない。さらにその「いま」が無色透明でなく、脚色される。過去は、「後の祭り」(後悔)で、未来は「取り越し苦労」(不安)と脚色される。純粋な「いま」を生きてはいない。それを妙好人の庄松の言葉に見ることができる。住職が庄松に、「吾が御堂の本尊は、生きて御座ろうか」と問うた。庄松は「生きとる生きとる」と答えた。するとさらに住職が「生きていらっしゃっても、物を言わぬではないか」と詰め寄る。最後に庄松は、こう答える。「ご本尊様が物を仰せられたら、お前らは一時も、ここに生きておられぬ」と。仏さまがおられる場所は、純粋な「いま・ここ」である。人間はそこを生きることが出来ない。だから、阿弥陀さんがしゃべった声を聞いたとしたら、それは幻想であり、もしほんとうの声を聞いたと思えたら、お前はこの世に存在していないことになり、生きてはおられぬぞと言ったのだ。
阿弥陀さんとか、浄土とか、あたかもそういう存在があるかのように語っているが、それは決して物理的なことを意味してはいない。それらの言葉が成り立っている意味空間は、「私一人を教える教えの意味空間」であり、まさに「意味時」の場所である。私にとって時間とは、「意味時」以外にないのだ。さて、自分はどんな「意味時」を生きているのか。死へと向かう絶望の時間を生きているのか。それとも阿弥陀さんを目指す旅をしているのか。藤代聡麿先生が「これからが、これまでを決める」と言ったのは、時間の受け止め方が変われば、いくらでも過去が変化するということだ。過去は固定的なことでは決してない。私たちにとって、時間は「意味時」だから、柔軟なのだ。