昨日の信道講座では、いろんな質問がでたが、「迷いを超える」とはどういうことかと受け止めた。まず、自分は「迷い」をどういうものだと思っているのか。そもそも、自分は迷っていると思っているのか、それとも迷ってはいないと思っているのか。そこに「自分」というものが抜けてしまえば、仏法にはならない。もし「自分」が入っているのであれば、何を迷っていると感じているのか。人間が、「自分は迷っている」と思っているのであれば、それは単なる愚痴に過ぎない。いろんな選択肢があって、それを迷って選べないとか、普段の気分が移りやすいので、それに振り回されていることを、迷っていると感じているのか。
そもそも迷っているか迷っていないかは、人間が決めるものではない。あくまでも阿弥陀さんが決められることだ。ただ阿弥陀さんは、「迷って困っているのではないですか」と呼びかけられるだけだ。そのよびごえを聞いて、そう言えば自分は迷っているなと感じるのだ。それは阿弥陀さんからの問題提起だ。そうやって揺さぶりをかけるのが阿弥陀さんだ。
そして、迷っていると思っているのも、迷っていないと思っているのも、「自分の思いの内側」だったと覚まされていく。人生は選択の連続だ。だから、いろいろと迷うのが常である。晩ご飯に何を食べようかと迷うこともある。しかし、ほんとうは何が食べたいのか自分でも分からないのだ。迷うのも、娑婆を生きる楽しみである。まあ、昨日は、名古屋名物のあんかけスパゲッティを食べた。一番人気の「ミラカン」を食べた。しかし、自分の口には合わなかった。上にかかっている餡が、いまいち自分には「なんだかな~」という感じだった。人生一度きりの選択を誤ったか。鉄板ナポリタンにしておけばよかったのにと、後悔した。所詮、娑婆は、取り越し苦労と後の祭りで出来上がっているものだ。それを見て、阿弥陀さんは「迷ってますなあ」といつも、微笑しておられるように感じる。