八ヶ月ぶりに、外で法話をした。新幹線は、やはり普段の混み方ではなかった。コロナの影響だろう。たまたま名古屋別院では、朝市が並んで活気づいていた。8の付く日は朝市が並ぶのだそうだ。会場はいつもの会館ではなく、対面所という場所だった。三密を避けるために、机には余裕をもって座席がしつらえてあった。テーマは、「〈一人一世界〉への覚醒」にした。
やはり、ライブはよかった。外からは朝市の焼きそばの屋台から、そばの焼けるいい匂いがしてきた。話をしていたも、焼きそばの匂いがすると、意識がそっちへ行ってしまう。人間は、何とも生々しい生き物だと、教えられた。瞬間的に、意識が飛ぶ。これは、自分が「器」であることの証明だ。煩悩にというエネルギーが渦巻く「器」である。欲望が花開いて、時間とともに、再び消えていく。
〈一人一世界〉とは、「いま・ここ・わたし」のことで、難しく言えば「時間・空間・主体」をどう受け取っているかだ。
親鸞は時間を「弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫をへたまえり」の「いま」で受け取り、空間を「此を去りたまうこと遠からず」の「ここ」で、主体を「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がため」の「親鸞一人」で受け取っている。我々が、常識としている物理的空間や時間は、「そらごとたわごと、まことあることなき」幻想だと教える。そう教えて、〈真実〉に反証されている。〈真実〉を生きることはできない。ただ反証されるだけだ。