南無阿弥陀仏をもってくると、この世のあらゆることが、そこへ納まっていく。集約されていく。
この世の凡ゆる不思議事が、不可思議として納まっていく。
だから、南無阿弥陀仏は念仏と言えるが、念仏は、そのまま南無阿弥陀仏ではない。
南無阿弥陀仏に万善万行の大功徳があると言うのは、そのことか。
何かをプラスした大功徳でなく、凡ゆる人間の価値を飲み込むブラックホールの功徳だ。
だから、煩悩も飲み込まれ、「意味の病」も飲み込まれ、執着も飲み込まれ、わだかまりも、喜びも、恨みも、悲しみも飲み込まれていく。
これが、歎異抄第四条の「いそぎ念仏して」の「いそぎ」の意味ではないか。
急いで、取るものもとりあえず、切羽詰まって、ではなく、即だ。
即時だ。
人間の世界は、すべて「始終なし」なんだ。限界性そのものだ。
ひとつも、これでよし、と言うことがない。人間が認めて肯定して受け入れようとするものは、すべて限界性だ。
それを包んで、超えさせようとするものが、南無阿弥陀仏だ。