報恩講を略式で勤めた。いつも言うように「報恩講は問恩講」である。如来から、そして親鸞聖人から何をいただいたかを問い返される法要だ。何をいただいたかと問われると、はなはだここもとなくなる。どれほど、素晴らしいものをいただいたと、言ったところで、それは凡夫の心情では「損得勘定」の域を出ない。「こんな素晴らしい教えに出会いました」と言ってみたとしよう。その「出会いました」と喜んでいる思いが、如来のご苦労を思うと、恥ずかしくなる。何を喜んでいるんだと、頭から冷や水を浴びせられる。そして「零度」に返される。
また報恩講という特別な行事を設ければ、その行事以外の日はどうなるのか。本山は一週間、拙寺では一日だ。それ以外の364日はどうなるのか。ほんとうは、毎日が報恩講でなければ、「真実の報恩講」ではない。それがほんとうの報恩講の精神だ。だから、特別な行事が特別であればあるほど、その他の日が霞んでしまう。「ほんとうの報恩講」は報恩講という特別な行事をしない、できないのがほんとうだ。それでも凡夫はやるしかないし、やってしまうのだが。どんなに素晴らしい報恩講でも、切なく、重たく、恥ずべし痛むべき行事なのだ。
ここだけで、こっそり言おう。報恩講の精神は、親鸞を流罪にした己の罪のところからしか起こってこない。