親鸞の直感した仏法は、恐ろしい思想である。
我々は、その影だけしか知ることはできない。
当体は、決して明かされない。
〈反問性〉とは、人間に、結論を与えない思想だ。
つまり、安定を与えない思想である。人間にとって、もっとも忌避されるべき思想である。まさにデス・ハラだ。
そんな恐ろしい思想を誰が求めているというのか。逆に、民衆によって弾圧される思想だ。「承元の法難」で、念仏者を惨殺した者たちの思想は、「民衆の常識」であった。それほどまでに、「常識という煩悩」は恐ろしい。
人間は「どうしたらよいのか」という方向以外では考えることができない。つまり、現状を変えることで理想を達成したがる。
親鸞はそのベクトルを否定する。ただそれは、現状に甘んじろという思想でもない。つねに、肯定であれ否定であれ、人間の「これでよし」と自己肯定しようとするベクトルをはぐらかす。それが「人間には真実がない」という意味だ。
それが、阿弥陀さんの教育を受けている現場である。「これでよし」もダメだし、「これではだめ」でもダメだ。その両方のベクトルを超えたことろに、未だに誰も見たことのない地平を開く。
煩悩だってそうだ。我々は煩悩を知っていると思っている。それは「既知の煩悩」だ。未だに見たこのない煩悩はまだ知らない。
知っている煩悩は、ほんとうの煩悩ではない。自分では、まったく手に負えない煩悩を煩悩というのだ。「既知の煩悩」、つまり飼い馴らされた煩悩しか知らない。だから、「私たちは煩悩具足ですから」などと呑気なことが言えるのだ。
煩悩を煩悩だと知っておられるのは阿弥陀さんだけだ。