NHKの朝ドラ「エール」を観ている。主人公「祐一」は、自分が戦意高揚の歌を作曲し、若者たちを戦場に導いてしまったことを後悔している。
この後悔は、慙愧である。慙愧は、謝罪の感情であり、人間にはそれしかできない。誰だってあの状態なら、ああするしかなかったろうと、自己慰撫の意識も生まれる。いやいや、自分のせいで若者を殺してしまった、とんでもないことをしてしまったと自分を責める気持ちも起こる。
しかし、慙愧は、犯してしまった自分への慰めであり、犯してしまった自分を抹消する意識だ。妻「音」の「もう自分を許してあげて」が絶妙だ。
慚愧は、歎異抄で言えば、「善人意識」だ。罪のない自分になりたいという傲慢だ。
だが歎異抄は、罪と一体化せよと言う。罪以外にお前はないのだと。
罪悪深重の衆生を助けんがためだと。
そうやって、罪の階梯を降りていくしかないのだ。
個人の罪から、〈一切衆生人〉への階梯を、一歩ずつ。
何を思い、何を行為しても、〈一切衆生人〉から、一歩も外部には出られないのだ。
初めて罪人になるのではない。もともと罪人だった。そこへ降りていく。それが揺るぎなき大地だ。