血のかよった阿弥陀さん

なんまんぶつと、称えても、無味乾燥のときもある。そうかと言って、感動が呼び起こされるときもある。それはこっちに問題はない。阿弥陀さんの側の問題だ。
いずれにしても、阿弥陀さんを感じるときに、血がかよっているのかと問いかけられる。自分の日頃の感受性に阿弥陀さんがどの程度、侵蝕してきているかということだ。ご飯を食べる場面、トイレで排便している場面、寝床に入る場面、テレビを見ている場面、仕事をしている場面、歩いている場面。日常は、必ずなにがしかの行為をしている場面の連続だ。その目の前の場面に、阿弥陀さんが侵蝕していきているか。
 「考え」ではなく、もっと深い「感受性」の部分まで侵蝕されていなければダメだ。
歎異抄著者は、「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし」(第16条)と言っている。この「ただほれぼれと」という表現が、侵蝕された表現だろう。まあ「ただほれぼれと」という感動が起こったとしても、それを捨てておける。それに執われない。いずれ「なごりおしくおもえども」(第9条)という絶望感も、やってくるのだから。どのような感情的な起伏があったとしても、それはそれとして、そっと置いておける。阿弥陀さんは、常に、まだ見ぬ領域におられるのだから。まだ見ぬ領域に、直面していることは間違いない。決して「既知の領域」には侵蝕されない。メタファーとしての「浄土」は、こんなに近いのだ。