今年も、報恩講シーズンがやって来る。お話のテーマは「<一人一世界>への覚醒」とした。
これは、何も突飛なことでも、新しいことでもない。
ナンマンダブツの世界を、私なりに再表現しただけのことだ。
だから、なんだそんなことか、とこころあるひとには思われるだろう。
つまり、私が感じ取っただけの世界を、私は私の世界として生きているというだけのことだ。
ただ、業の似ているものは、世界を同じように感じ取れるので、同じ、一つの世界を生きているように錯覚してしまう。
厳密に見れば、世界は各々に違っていて、同じ家族でも、一卵性双生児でも、違った世界を生きている。
仏教が着眼したのが、決して他者と一緒にならない不共業の「老病死」だ。これは<一人一世界>という、各人各別の世界にしか起こらない出来事だ。
そこに着眼して、「老病死」をどう超えさせるかといえば、固定観念の解体である。
死という固定観念を解体する。人間は他者の死しか知らない。自分自身の死は体験できない。
だから、「客観的な死」しかない。「主体的な死」はない。
そうやって、死の観念を解体して、死を知らないという状態に連れて行く。
ただ、人間は「共同幻想」の中を生きているので、唯一、一つの世界の中に生きていると思い込んでいる。
これは、一つの教室という空間の中にたくさんの生徒がいるという観念になる。
それで死は、一つの教室という空間から、一人の生徒が出て行ったという観念になる。
その一人が自分にとって親密度が深ければ悲しみも深く、浅ければ悲しみも浅いという感情があらわれる。
もしそれも親密度が深く、二度とその生徒に会えないという別れでれば、悲嘆はさらに深い。
「死」のイメージも「共同幻想」で作られるので、これを覆すことは至難の技だ。
「我々は」とか「私たちは」という言い方をするが、これは曖昧な言い方で、厳密には成り立たない言い方だ。
正しく言えば、「共同幻想」の内部でしか通用しない言い方である。
それが幻想だと覚めることを、古代インドでは「ブドゥ」とか「ブドゥフ」と言ったらしい。これは、ブッダとかボダイの語根であるという。
覚めるのは、「共同幻想」から覚めることであり、別の言い方をすれば、それが「共同幻想」だったと自覚することである。
歎異抄第4条では、「共同幻想」内部の「死」を「聖道の慈悲」と言い、そこから覚めることを「浄土の慈悲」と言っている。
感情の問題としては、自分の自我を形成してくれていた親密度の深い他者がいなくなるのだから、悲嘆するに違いない。
だがそれは、他者のために悲嘆するのではなく、自我が崩壊する悲嘆であるから、自分が悲しいだけのことだ。
安田理深先生は、「夫は夫自身を愛するために妻を愛し、妻は妻自身を愛するために夫を愛す」と述べている。
つまり、愛とは、自己愛以外には、成り立たない感情だというのだ。
これも、<一人一世界>を前提にしなければ成り立たない言い方である。
さて、それでは自分自身は「死」の観念が解体されて、それから「死」をどうやって受け止めなおすのだろうか。
親鸞は、「なごりおしくおもえども、ちからなくしておわるときにかのどへはまいるべきなり」(歎異抄第9条)と言っている。
たとえ「死」の観念が解体されても、なお「なごりおしい」という感情が起こる。その感情がおこったとしても、「かのどへはまいるべきなり」と言う。
つまり、死すべく生きる、<いま>という時間が、浄土へ参るための時間と受け取られているのだ。
もちろん、「死」の観念が解体されているということは、「浄土」という観念も解体されていることは言うまでもない。
死は「絶望」に、浄土は「希望」という煩悩が投影したイメージに過ぎないことは分かっている。
つまり、時間も空間も、死も生も、すべてが解体された後に残るのは、〈往生という物語〉なのだ。
それは、人間が恣意的に生み出した物語ではなく、阿弥陀さんによって幻想が解体された後に生まれる物語である。
つまり、本当のことは、我々には何ひとつ知らされていないということである。
親鸞の「無義をもって義とす」という表現は、それを言い当てているのだろう。
生きる方向も、生きる意味も、何が正しく何が間違っているか。それらのすべてが、阿弥陀さんから「無義」とされる。
だから、一つもこれでよしということがない。また一つも済んでしまったことがない、ということだ。私の生は、「弥陀成仏」のところから始まっていたのだ。
だから、自分には存在の責任ということが一つのもない。いわは被害者だ。
すべては阿弥陀さんに責任がある。
阿弥陀さんの言いなりで、ここまで来たのだから。
生も死も、何一つ自分には明らかになっていない。そうやって、何ものをも知らない存在にしてくださる。
生活の方向性も、時間の経過も、自分の行く末も、あらゆることが「無義」とされて、存在が零度に帰される。
ここが旅立ちの原点であり、終着の帰着点でもある。
後は、向こうからやって来るものに応じていけばよい。すべては向こうからやってくるのだから。