仏さからの逃亡

「自己」というと、目に見える人体をイメージしてしまうのではないか。それは「共同幻想」に酔っているから、そう見えるだけだ。ほんとうの「自己」とは、あなたが見ている景色そのものだ。「宗教が政治問題に触れないのはおかしい」と批判するひとは、「宗教」なるものと「政治」なるものとがバラバラにイメージされているのだ。この世のあらゆる問題が引き起こされてくる根っこを問題にするのが、「宗教」という意味空間だ。
「自己」とは、あらゆる問題が噴出してくる噴火口みたいなものだ。その「自己」の噴火口から中をのぞき込めば、それはおぞましいマグマが詰まっているのだ。そのくらいのおぞましさは知っているぞと思っているひとでも、未だに体験したことのないおぞましさには出会っていない。
 ただ、そのマグマに気づかずにいるから、自分は善い者だと思い上がってしまう。おぞましいことを思っても、ひとに言わずにおけば、化けの皮が剥がれることはないから安心だと思っている。
どっこい、そのおぞましさを、おぞましいぞと剥き出しに突きつけてくるのだから、阿弥陀さんは恐ろしい。人間は、そんな仏さんなどに会いたくないのだ。逃げたいのだ。そんなものを本尊として安置している場所から遠くに逃げたいのだ。
しかし、逃げ切れるのだろうか。