ブラックホールの南無阿弥陀仏

人間のあらゆる問題を煎じ詰めていくと、すべてが南無阿弥陀仏を指差している。
だから、言葉や感情が、南無阿弥陀仏に吸引せれていき、言葉を失う。
この吸引力はなんだ。
まるでブラックホールだ。

でも、すべてが飲み込まれたら、今度はそのブラックホールから、無限に言葉が噴出してこなければならない。
それは「指示表出」としての言葉でなく、「自己表出」としての言葉だ。
だから人間の世界では、それが必ず無意味に裏打ちされていなければならない。
生地の表は、彩られた人間の言葉だが、裏側はまったくの無意味だ。
これは、言葉だけでなく、人間という存在が、そうなのだ。
表は生だが、裏側は死で裏打ちされている。
そこで初めて、生でも死でもない、第三のベクトルへと開かれる。
「意味の病」を超えていく、唯一のベクトルだ。

ありきたりの南無阿弥陀仏から、血の通った南無阿弥陀仏へと出会い続けていく。
常に未知の南無阿弥陀仏へと開かれていく。
ため息は南無阿弥陀仏だ。
そのため息は、嘆息であると同時に、感嘆でもある。