不了仏智

今朝のお朝事の和讃は「仏智疑惑の和讃」だった。毎朝、回り口で、順番に勤めていくのだが、「仏智疑惑和讃」が回ってくると、いつも嬉しくなる。なぜなら、自分にとって身近な和讃だからだ。自分のことを歌われているようで、ひしひしと身近に感じる。恐らく、身近なことを歌われているのだろう。
「仏智の不思議をうたがいて」と歌われれば、自分の疑いのこころを指摘されているように感じてしまう。でも、疑うのも、信ずるのも、自分とは無縁なのだ。ただ「仏智を疑っているのではないか」と問いかけることで、私に何事かを伝えている。この「疑い」は、末那識と言って、無意識の疑いだから、普段の第六識の意識の疑いではない。反省したり、後悔したりできる意識は、第六識までだ。それほどまでに深い疑いが歌われている。
阿弥陀さんは、疑っているぞ、背いているぞ、と叫んで下さり、私に何事かを訴えて下さる。つまり、自分が「阿弥陀さんの願いに背いているな」という思いを超えさせて下さる。「疑っているな」と思うのは、傲慢なことなのだ。しかし、それも無理からぬことだ、そういうふうにしか私は「仏智疑惑」を受け止められないから。「疑っているぞ」と暗示されて、疑いを超えさせて下さり、何事かを暗示する。人間にとって、阿弥陀さんの訴えは、いつでも「暗示」である。「暗示」だから、この世のことには、絶対に還元できない。それでよいのだ。