姪の「死」

姪が20歳で自死した。突然のことで、茫然自失だった。残された者たちには、「まさか!」「なんで、どうして」という思いばかりが去来した。荼毘に伏すまでの5日間は、足が地に着かなかった。京都から、恩師が弔問に来て下さった。師は「いのちを生き切ったんやね」と、棺の彼女に向かって漏らされた。そうなのだ。彼女は彼女のいのちいっぱいを生ききったのだ。自死は、事故以外には成り立たない。
残された者たちのこころに引き起こされてくるものは、すべて煩悩だ。「なんで?」「もっと早く気づいてあげられなかったのか」「彼女の悩みに気づかなかった」「二十歳はあまりに若すぎる」「他に助ける手立てはなかったのか」。そういう思いはすべて煩悩が引き起こす。
そんな思いはすべて間に合わん。煩悩は、思いを過去と未来に引き裂く。過去(後の祭り)と未来(取り越し苦労)とに。
仏と成った姪は、「そこに私はいない」と言った。生者が思い描く彼女は、生者のこころの内部にしかいない。それは〈ほんとう〉の彼女でははい。生者は「死」を体験したわけでもないのに、「死」を知っているかの如くに振る舞う。それは傲慢ではないか。彼女を見て「可哀想だ」という思いは、生者の傲慢でしかない。その「可哀想だ」という目は、自分に跳ね返ってくる。自分自身が「可哀想」なのだ。生者は、生者のこころの内部で、「可哀想」ないのちを生きているに過ぎない。