吉本隆明さんが『共同幻想論』(他界論)の中で、次のように述べている。「人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想に〈侵蝕〉された状態を〈死〉と呼ぶといういふうに。〈死〉の様式が文化空間のひとつの様式となってあらわれるのはそのためである。
たとえば、未開社会では人間の生理的な〈死〉は、自己幻想(または対幻想)が共同幻想にまったくとってかわられるような〈侵蝕〉を意味するために、個体の〈死〉は共同幻想の〈彼岸〉へ投げ出される疎外を意味するにすぎない。
近代社会では、〈死〉は大なり小なり自己幻想(または対幻想)自体の消滅を意味するために、共同幻想の〈侵蝕〉は皆無にちかいから、大なり小なり死ねば死にきりという概念が流通するようになる。」
確かに、村落共同体では死を集団で弔うから、死ねば魂は山や海へ帰るとか、信仰集団であれば、浄土に往ったと「共同幻想」で死を受け止めるだろう。その一方で、近代社会を生きる個人は、もはや未開社会の共同幻想は死滅しているから、「死ねば死にきりという概念」になっているのだと吉本さんは言っている。そこで、私ははたと立ち止まってしまった。「死ねば死にきりという概念」も「共同幻想」が生み出したものではないのか、と。人間が生まれて、乳児から幼児へと成長していく過程で、ひとは死を学んでいくものではないか。学んでいく過程は、対幻想や共同幻想の中で学んでいくのではないか。だから、人間にとって死は、「共同幻想」の内部でしか考えられていない。ただ、その死は、人間にとって生理的なものでも、物理的なものでもなく、「幻想領域」にあるものだということになる。これが自覚的になることが、人間にとっては「救い」の扉を開くことになる。死は生理的であり、物理的だと見る「虚無的共同幻想」から目覚めるチャンスだからだ。