仏智を疑えるのは仏のみ

親鸞の疑惑和讃の最後には、この和讃が置かれている。「仏智うたがうつみふかし この心おもいしるならば くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし」。学生の頃、広瀬杲先生が、ここには「仏智うたがうつみふかし」とあって、その次が「この心おもいしるならば」と書かれている。「このつみおもいしるならば」とは書かれていない、と強調されていたことを思い出す。その理由は忘れてしまったのだが、恐らく、「おもいしる」ことが出来るのは自分の「心」であって、「罪」ではないということだろう。なぜなら、仏智を疑う罪とは、仏智と同質のこころでなければならない。仏智を疑っていたなと内省できるこころは仏智以外に無いということだ。人間にとって仏智とは、人間を超えているものなのだから、信じようも、疑いようもないのだ。だから人間にとっては、「不思議」なのだ。それではなぜこのような和讃を親鸞は残したのか。それは、仏智を疑うことができると思っている思い上がりを自覚させるためだろう。実は、人間は仏智を疑う罪の、ほんの片鱗を感じ取ることができるだけなのだ。それも、仏智とは絶縁しているのだ。所詮、「自力のこころ」の内部の問題に過ぎない。徹底的に、仏智と隔絶していることを教えているのが、「仏智の不思議をたのむべし」だ。この「たのむ」は「頼む」でも「恃む」でもない。「憑む」である。取り憑くの「憑」だ。如来に取り憑かれるという意味だろう。それは、「~する人生」から、「~される人生」へと転ずるだけだ。