二重否定という表現

ある青年が、あるお寺に入寺し、書斎で仏書を読んでいた。その寺には姑がいて青年をこき使う。郵便配達員が手紙を運んできたとき、姑は青年に声を掛けた。「○○さ~ん!この方にお茶を淹れてあげて!}と。青年はムカッとした。いま文書の大切な勉強をしているのに、郵便配達にお茶を淹れろとは何事か!どっちが大切な仕事かわからんのか!と腹を立てた。しかし、思っていたが、それを姑に訴えることも叶わず、そうしていたらしい。そのことを青年は、ある仏者の先生に訴えた。
青年は、当然、自分の考えに同調してくれると思っていた。ところがその先生は、「郵便配達にお茶を淹れることが、仏法ではないとは言えんのではないかね」とおっしゃった。ここに、生活仏法のダイナミックスがあるように感じた。青年は仏書を読むことが仏法であり、お茶を淹れることは仏法とは無縁だと考えている。先生は、仏法はそんな狭い世界ではない、この一瞬の行為、そこに働いているものこそ仏法だと言いたかったのだろう。またそれを伝える言い方が妙なのだ。「お茶を淹れることが仏法だ」とは言っていない。「お茶を淹れることが、仏法ではないとは言えんのではないか」だ。「お茶を淹れることが仏法だ」と言えば傲慢だ。自分が仏法を分かっていることになる。そうではない。言わば「二重否定」が、凡夫の立ち位置である。「親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか」(『歎異抄』第2条)という表現が、それだ。文法的には二重否定になってはいないが、「むなしかるべからず」で切ってはいない。最後に「そうろうか」が付いている。自分には分からないのだが、そうではないでしょうか、そう思えるのですが、というニュアンスだ。そこで「平等」な凡夫の地平に立つことができた。ここからここまでが仏法で、ここからここまでが仏法ではないなどという狭い世界は仏法ではない。