問う者から、問われる者へ

京都教区の『教区だより』に原稿を依頼された。依頼のテーマは、「今、この時に、親鸞聖人に遇う」だ。私はそれに、「問う者から、問われる者へ」というサブタイトルを付けた。(ここに転載させていただいた。)

■「いま、この時に」■
この連載テーマにある「今、この時に」とは、全世界を席巻するコロナウイルス騒動を念頭に置かれていると思われます。ひととひととのつながりを基本に形成されてきた真宗教団が、ウイルスの感染拡大不安を契機に分断されているように感じます。しかし、この騒動により、私たちは多くのことを学びました。害悪を自分以外に見たとき感染者差別や医療者差別が起こり、自粛警察なる問題まで引き起こしました。また人類の歴史が疫病と共に、いまなおあるとも学びました。人間は「人の間」と書くように、人的つながりを抜きには世界全体が動かないことを、改めて教えられました。
このウイルスが恐れられているのは、感染していても症状がすぐに現れないことと、感染してからの致死率の高さだそうです。そこで人々の関心が「如何にウイルスに感染しないように生活するか」に集中していきました。これは煎じ詰めれば、「如何に死なないように生き延びるか」という関心へ行き着きます。この「如何に」という問題さえ解決すれば、人類にとってのあらゆる問題はすべて解決するかのようです。
■「如何に」と「なぜ」■
ところがイエスが悪魔から、お前が神の子であるならば石をパンに変えてみろと試されたとき、彼は「人(ひと)の生(い)くるはパンのみに由(よ)るにあらず」(マタイ書)と答えました。「如何に」という質の問題をパンに象徴させて、それだけでは生きることができないと。続けてイエスは「神(かみ)の口(くち)より出(い)づる凡(すべ)ての言(ことば)に由(よ)る」と言いました。これは「如何に」ではなく、「なぜ」という質の問題を提起したのです。「如何に生きるか」ではなく「なぜ生きるか」という質の問題です。これは「如何に生きるか」という問題が解決してもしなくても、なお永遠に残る問題だというのです。あらゆる信仰は、この「なぜ生きるか」という人類の深い欲求に応じて、必然的に生まれてきた現象です。
おそらく親鸞もこの問いに取りつかれたのだと思います。「なぜ生きるか」という問いに取りつかれると、〈いま〉という時間が浮き彫りにされます。〈いま〉、ご飯を食べていれば、食べることの意味が問われます。〈いま〉、道を歩いていれば、歩いている意味が問われます。〈いま〉、生きることの意味を問われることは、人生は〈いま〉の連続ですから、四六時中に渡って問い詰められていきます。親鸞に「急作急修(きゅうさきゅうしゅ)して頭燃(ずねん)を灸(はら)うがごとくすれども」(『教行信証』信巻)と言わせたものが、この問いだと思われます。人生のあらゆる場面で、生きることの意味を問われることは、この答えが見つからなければ、いかなる行為をしていても、その行為は空しく意味のないものに変質してしまいます。あたかも頭に降りかかる火の粉を振り払うようにしても、決して振り払えるものではありません。
■意味の病■
 これを私は「意味の病」と呼びました。「なぜ生きるか」という問いに取りつかれることは、「意味の病」に取りつかれることです。「取りつかれる」という言い方をしたのは、取りつかれることも人間の都合ではなく、阿弥陀さんの摂取不捨の力だからです。摂取不捨の力ですから、逃れることもできません。それを「意味の病」と呼んだのは、意味を問う主体が自己(煩悩)になっているからです。自分が自分自身の生きる意味を問うても、それには答えは見つかりません。なぜならば、人間が問う生きる意味とは、自分にとって都合のよい意味でしかないからです。人間の問いは、「貪欲(とんよく)」という煩悩からしか生まれてこないのです。
 思えば親鸞は、「浄土往生」という救済物語を生きる中から言葉を紡いでいきました。しかし門弟は、それを「貪欲」で受け止め、浄土=安楽の場所(得)、地獄=苦悩の場所(損)と誤解しました。門弟は、〈いま〉を生きている意味が「浄土=安楽の場所」への道であれば納得しますが、「地獄=苦悩の場所」では納得しません。それこそが「意味の病」です。
■問う者から問われる者へ■
 私は「意味の病」からの解放を「問う者から、問われる者へ」と表現しました。「問う者」とは、自分が主体になって、自身に問うてみる方向性です。その方向性では生きる意味は見つかりません。この問いは人間が人間自身に向ける問いではなく、阿弥陀さんからの問いかけだからです。それが「問われる者へ」です。自分は問う者ではなく、問われる者にさせられたのです。それが阿弥陀さんからの問いかけとなれば、阿弥陀さんだけが答えを御存じのはずです。それで親鸞は「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。」(『歎異抄』第2条)と述べました。南無阿弥陀仏と発語する行為が、浄土(安楽の場所)へ往く条件か、あるいは地獄(苦悩の場所)へ往く条件か、まったく知らないというのです。なぜそう言えたのかといえば、それは、〈いま〉を阿弥陀さんに全託しているからです。そうなると、生活のあらゆる〈いま〉という時間が、阿弥陀さんへ向かって抛擲(ほうてき)された生活として受け止め直されます。「全託」というと、すべてをわかった上で阿弥陀さんにまかせているように聞こえますが、そうではありません。自分からすれば、それが浄土へ向かう生活かどうかはわからないのです。わからないままにおまかせすることを「全託」というのです。凡夫が自分の往く先を知った上でおまかせすることほど傲慢なことはありません。親鸞も「いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたもうなり」(同書第九条)と言っています。急いで浄土へ往きたいと思わない者をこそ阿弥陀さんは、特別に悲愛して下さると。これは浄土へ往きたくないと思うのも、また往きたいと思うのも、共に煩悩が言わせているのだと、煩悩の騙しを完全に見破った言葉です。このような「煩悩具足の凡夫」なればこそ、「他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。」(同書)です。全生活の、あらゆる瞬間が、すべて阿弥陀さんからの力強い問いかけとしてあったことに目覚めたのです。