拾うて喜ぶ

自信をもって自分の信仰を、ひとに勧めることができるだろうか。もしそういうことが出来たなら、それは〈真宗〉ではないように思える。自分の信仰が、ひとにとってプラスにはたらくかマイナスにはたらくか、本当のところはわからないからだ。必ずプラスにはたらくに違いないと思っていられるひとは幸せなひとだ。ただ、そのひとは〈真宗〉が劇薬だということを知らない。劇薬の力を見くびっておられるのかもしれない。それでも教団は、ひとによかれと思って教えを広めているではないか。それはそうするしかないから、そうしているだけだ。教団の存在意義がそこにしかないと思っているから、そうしているだけだ。大雑把にみれば、それでよい。しかし、厳密にみると、教えの発信対象は、ひとではないのだ。阿弥陀さんに向かって発信されているだけだ。その阿弥陀さんに向かって発信した言葉を、「拾って喜ぶ」ひとがいるだけだ。これは幕末の妙好人の庄松さんの話だ。彼が住職から「還相回向とは?」と問われたとき、「それはおれが喜ぶと、人が拾うて喜ぶのじゃ」(『庄松ありのままの記』)と答えた。だから自分が喜んでいればよいということだ。後はそれを拾って喜ぶひとがいればよいが、そうなるかどうかは分からない。だから、坊さんの説法は、〈裏声〉でしなければならない。阿弥陀さんだけに向かって。聴衆を対象にしたとき、それは汚れる。