回向の換骨奪胎

親鸞以前の「回向」は、人間が何事かを成就するために仏や故人などに働きかける行為として読まれてきた。親鸞は、曇鸞にヒントを得て、それを往相・還相と二面性で受け取った。天親や曇鸞ではまだ曖昧だが、親鸞にとっての「回向」の主体は、法蔵菩薩であり、人間ではない。すべてが如来からの回向であり、そこには人間はない。往相は往生浄土の相(すがた)であり、還相は還来穢国の相である。人間の関心らかすれば、往相だけで終わっている。実体的に考えて、行者が浄土に往って、さとりを開き、再びこの世に還って来て菩薩の仕事をすると受け止めていた時期もあった。天親はそのように受け止めていた節がある。しかし、親鸞は回向の主体を「本願」そのものと受け取り、今までの受け止めを換骨奪胎した。人願が浄土に向かおうとしたとき、つまり現状に違和感を感じて、道を求めようと志したとき、そこにはすでに回向がはたらいていると受け取った。自分が能動的に求めようと志したとき(往相)には、その能動性を打ち出す受動性(還相)がすでにあるのだと受け取った。つまり人間には道を求めようとする根拠がないことを明らかにした。人間から自発的に求める根拠のないことが、還相回向で証明された。往相も還相も、衆生救済のための循環運動の二側面と見抜いた。
これを突き詰めると、自発的にしていると思っているあらゆる行為が、実は受動性を背景としてあったことに気づく。自分が誕生するための精子と卵子が結合したその瞬間も受動性でしかない。まあそんな夢みたいな話なのだが、それを自分は「そのとおり」と思っているわけではない。決した、思えないのだ。ただ〈真実〉はどっちかと聞かれたら、そっちなのだ。自分の「思い」のほうではない、厳然とした事実のほうなのだ。その〈真実〉に打ちのめされて、〈真実〉の後を、とぼとぼとついていくしかない。