『越後の願生寺安心事件』は真宗仏光寺派新潟教区の「親鸞聖人750回忌大遠忌記念事業」として発刊された。ことは「江戸初期(貞享元年・1684年)に新井極楽寺で浄興寺山内の正光寺の廻談説教を聴聞した仁兵衛が、「十五歳以下の小児は往生できない」と説く願生寺を離れ、浄興寺門徒となったことにある。そして、娘が亡くなっても寺へ届けず、自分で葬り門徒を離れるという騒ぎが起こり、上越一帯に門徒の動揺が広がる。」とある。当時、浄興寺も願生寺も東本願寺教団に属していたが、願生寺が自説を主張し、浄興寺と論争を挑もうとした。それが火だねとなり、本山へ訴え、さらに寺社奉行所までを巻き込む騒動が起こったという。ことの結末は、浄興寺が勝ち、願生寺が負ける形になった。願生寺住職は、僧籍を剥奪され追放、寺を召し上げられたが、最終的には仏光寺に改派したという。いわゆる「異安心問題」だが、他にも「三業惑乱事件」のもとになる論争も越後で起こっている。事件は「教学論争」だけに見えるが、ことはそう単純でなく、政治や経済や名誉等の問題が絡んでいるようだ。浄興寺はいまでこそ東本願寺に属していないが、真宗各派の親鸞聖人遺骨は浄興寺から譲り受けたものだ。なんと言っても娘を浄興寺に嫁がせるほどに教如は浄興寺を支援している。
問題を「教学論争」だけに絞って見てみよう。浄興寺が体制派と決まった以上、願生寺は「異端」と見なされた。まず、論争は3点あった。1,雑行雑修の心は行者の方にて捨てる捨てない。2,一歳・二歳の子どもの往生は出来る出来ない。3,信心の上、報謝の念仏を励む励まない、の3点だ。紙面もないので、このうち2の「小児往生」だけに絞ってみる。「親が御文をいただかせ後生助け候へと頼めば、一歳・二歳の子どもでも往生できるとする浄興寺に対し、願生寺は、弥陀は心底より疑いなく頼み奉るものを助けるのであって、信心のないものが助かることはないと主張する。また、御文を子どもにいただかせて頼むというような「お名掛」などという作法は聖教にもないし誤っているとも主張する。」異安心問題で、それが教学的に決着したためしはない。異端の主張が体制派によって平定され、「日常」を取り戻す形で収束する。私も、この論争に対する自分なりの答えは持っているが、スペースが限られているので割愛したい。ただし、この本を読ませていただき感じたことは、江戸期には教学にいのちを掛けて論争するという気風があった。これは現代と比べると驚愕する。(この本をご希望の方は2,200円+送料+手数料。fax0256-93-3478清傳寺まで)