そう受け取るところに露見している

今朝のお朝事の和讃は「善知識にあうことも おしうることもまたかたし よくきくこともかたければ 信ずることもなおかたし」だった。これを唱えていて、これほど「かたし、かたし」と連続して言われると、もうとても困難なことで、自分たちは近づけないなと思ってしまう。高い山を前にして、こんな高山ではとても登れないと断念するような気分だ。面白いのは、なぜそう受け取ってしまうかだ。
 そう受け取ってしまうところに、すべてが露見している。つまり、無意識のうちに「自力のこころ」で受け取ってしまっているのだ。つまり、努力で可能かどうかという範疇で受け取ってしまうのだ。親鸞は、阿弥陀さんと出遇ってみたら、こんなに大変なことだったんだと言っているだけだ。だから出遇ったひとの感慨として「かたし」が吐露されている。そうなのに、私は「さあこれから信じよう」という範疇で受け取ってしまう。それは「自力のこころ」が感じさせている世界だ。初めから努力を超えている出遇いを述べているだけだった。だから「自力」では通用しない世界を、あたかも努力では不可能だという形で述べている。それはもともと不可能なのだ。あらゆることが努力では不可能なのだ。何事かが成就したとき、「自分の努力の結果」だと受け取るか、それとも「お陰様」と受け取るかの違いだ。この言い方も嫌いな言い方だ。この「お陰様」という言葉は、すべてに感謝しているふうな能天気な言葉だ。これさえ語っていれば、いい坊さんのように思われる嫌な言葉だ。人間には「お陰様」などという言葉は使えないのだ。ほんとうは。人間は自分にとって、都合のよいものには感謝するが、不都合なものには感謝できないという根性を持っているからだ。だから決して「お陰様」などとは言えないことを前提とした「お陰様」である。