自力のこころを親鸞は「わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちららをはげみ、わがさまざまの善根をたのむ」(『一念多念文意』)と言っている。真宗門徒は、自力のこころを知っているらしく、「自力ではダメなんですよね、他力でないと」とおっしゃる。でも、自力のこころは、唯識で言われるところの「末那識」だから、人間が自覚することはできない。辞書には「睡眠中でも覚醒の時でも、広くは生死輪廻するかぎり、深層において絶えることなく働きつづけ、さらに審らかに、すなわち、根源的な心である阿頼耶識を対象として執着し続ける心」(岩波仏教辞典)とある。それほどに深いこころだ。もはや、人間が考えるということ自体が、自力のこころ抜きには成り立たない。
だから自力のこころと言われても、「へー、そういうこころがあるの」とビックリするほかない。まあいままでぼんやりとしかわからなかったものが、少しハッキリしてきたくらいものだろう。すべての問題は、自力のこころにあるのだと。ところが親鸞は「回心というは、自力の心をひるがえし、すつるをいうなり。」(唯信鈔文意)などというから、面食らってしまう。これでは自力のこころを捨てることができるかのように思えてしまう。小生も以前は、親鸞の言葉に一喜一憂していたが、いまではこの表現も、親鸞の〈一人一世界〉の受け止めだと思えるようになった。唯円はもっと丁寧に「回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ。」(歎異抄第16条)と述べている。これも唯円の〈一人一世界〉での表現だ。それでは、小生はどう受け取るか。自力のこころを、これではダメだと思うこころからの解放が回心だと考える。「私が生き、私が考える」というふうに考えていることそのものが正しいと思っていたが、そうではない。この世と関わる一点が「私」だと思っていたが、その前に一拍がある。ベートーヴェンが「運命」を演奏するとき、最初にじゃじゃじゃじゃーんと音を出す前の空白の一拍。この空白の一拍が「弥陀の智慧をたまわりて」であった。この空白から私のいのちが始まっていた。