叔母が突然、亡くなった。何の前触れもなく。80歳だった。客観的には80年生きたらしいが、それがどうしたというのだ。家族にとっては、そんな年齢はどうでもよいことだ。その人の重みは、時間では決して計ることができない。そのひとの存在を他のものでは、決して補うことができない。なぜ死んだのか。その真実の答えは、「生まれたから」だ。条件はたとえ心筋梗塞だとしても、原因は「誕生」以外にない。それが〈真実〉というものだ。ただし、〈真実〉は誰もが否定できないことなのだが、それだけでは、〈真実〉にはならない。それが〈真実〉として、そのひとの内面に深くに受け止められるには、もう一段階なければならない。曇鸞は、それを「智慧・慈悲・方便」という三つのことで語られる。智慧とは〈真実〉を知ることだ。死の原因が、生だということを知った。それがそのひとに受け取られるには、「慈悲と方便」が必要だという。「慈悲と方便」とは、愛と愛のメッセンジャーだ。それを親鸞は、「真実は阿弥陀如来の御こころなり」(『一念多念文意』)と受け止めたのではないか。
死んだのは、この世に生まれたからだ。それは分かった。それは厳しい冷徹な真理に違いない。しかし、それを遺族に直に伝えたら、反感を受けるに違いない。人間は冷徹な真理を突きつけられれば、目を背けたくなるからだ。反感から怒りにすらヒートアップすることもある。だから坊さんは真理を「裏声」で、そっと阿弥陀さんに向かってつぶやいているだけだ。そのつぶやきが、阿弥陀さんにぶつかって、阿弥陀さんからエコーされて、遺族に反響する場合がある。(echoエコーと回向がかかっているとは!)阿弥陀さんだけが、慈悲という愛を遺族に浴びせることができる。これが「浄土の慈悲」だ。その慈悲に触れるには、「聖道の慈悲」への断念がなければならない。「聖道の慈悲」には、「自分」が抜けている。誰かを亡くして悲しいという慈悲だ。そこには「自分」が抜けている。自分も、死ぬわけだ。そこで他者と自分がイーブンの場所に立てる。それで初めて、阿弥陀さんと絶対の自己との関係が開かれる。阿弥陀さんを前にすると、自分は未来に向かって生きているのか、過去に向かって生きているのかがわからなくなる。すべてが、「いま・ここ・わたし」へと収斂してくる。親鸞は「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」(『歎異抄』後序)と吐露している。これは二つの価値観が壊れたことを述べている。壊れた後に、何が残ったのだろうか。