知り合いの住職(60歳)が膵臓癌で亡くなった。病が発見されてから、二ヶ月半だった。あまりの早さに、言葉も、こころも失った。
いいひとはほんとうに早く、召されてしまう。残されたものは、こころがぼろぞうきんのようになり、修復できない。門徒(57歳)が、二週間あまりの早さで亡くなった。立て続けに、いのちのあっけなさに呆然としている。亡くなったご本人ではないので、ご本人の感じ方は分からないが、残されたものの感情は複雑だ。自分では決して制御できない。「思い」はどこまでも行ってしまう。
ただし、残されたものは、食べなければならない。生きなければならない。何のために生きるのかという、問いに晒されながら。それは「生きる」というような積極的なものでなく、「死なないようにしている」というだけのことになってしまう。こんなに辛いのに、なぜ生きねばならないのかと、自問する。その答えは、自分の、人間の内部からは見つからない。真宗門徒にとっては、たったひとつ、「阿弥陀さんのために生きる」という答えがあるだけ。いや、それは答えではなく、問いかもしれない。人生の結論を人間がつかもうとする、その手を切り落としてくれるのは。「零度の存在」に返してくれるのは。