聞法空間の不可思議

昨日、生まれて初めて、法話をネット配信するための動画撮影なるものをおこなった。撮影するための要員は3人。聴衆はその三人のみ。
また、撮影されたものは不特定多数の匿名さんが見る。そのような状況の中で、話をしたが、言葉が、いわゆる闇の中に吸い込まれていくような不安な感じがした。発した言葉が、相手にぶつかって返ってくる手応えがまったくない。こんな経験は初めてだった。
そう思うと、聞法空間は話し手だけが一方的に話をしている空間ではないことが、あらためて知らされた。話し手の言葉は、聴衆の何かにぶつかって返ってくる。その返ってきた何かが、話し手からまた新たな言葉を生み出していく。つまり、聞法空間は話し手と聴衆の両方によって創造されていく、一期一会の不可思議空間だったのだ。だから、一人で話していると、まるでガソリンの補給のない車を走らせているようだった。まさにガス欠だ。こんな経験は初めてだった。
法話は、自分が話しているではない。聴衆の引力によって引き出されていくものだ。だから、話し手自身が、自分から出てきた言葉に驚くということが起こる。それは自分の言葉であって、自分の言葉ではないから。真宗はこの聞法空間によって生み出されてきたのではないか。この聞法空間こそが、真宗門徒の栄養源に違いない。いまコロナ騒動で、人と人とが引き離されてみると、あらためて聞法空間の有り難さが痛感された。
これは、なんとかして仏法を手渡したいと思っているひとには申し訳ないのだが、もう動画撮影はやりたくない。