5月17日11時より、因速寺にて永代経法要を内勤めにて勤修いたしました。雅楽の調べと読経により厳かに勤めることが叶いました。時空を超えて、門徒さん方は自宅のお内仏(仏壇)の前で、ご一緒に阿弥陀さんと対面しました。日常生活の、どの場面を切り取っても、阿弥陀さんと対面しているのですが、それを日頃は忘れてしまいます。そこで、再確認するために、こういう法要があるのだと思います。
いつで・どこでも・私一人が阿弥陀さんと対面しているのが、私たちの日常です。
どこへ行こうとするか、何を思うか、何を語るか、その根底は阿弥陀さんの促しだったのです。私の身体は、阿弥陀さんの促しによって、阿弥陀さんのなさる方向へと動いていくのです。阿弥陀さんという、人格があるわけではありません。絶対受動を阿弥陀さんと人格的に表現しているだけです。私たちは阿弥陀さんのなさった結果だけを知ることができます。
何でビールを飲みたいと思ったのか、なぜ窓の外を眺めたいと思ったのか、なぜ立ち上がってトイレに行こうと思ったのか、その原因は分かりません。ただ、そうしたかったとしか言えません。
自分で自由に何でもでき、何でも思うことができると考えるのか、自分は受動態だと考えるのか、その二つの意味空間が異なっているだけです。親鸞の「さるべき業縁」(歎異抄第13条)という意味空間は、後者だと思います。だから、自分は恐ろしいものでもあり、また、尊いものでもあるのです。