2016年2月28日に初版が出た『なぜ?からはじまる歎異抄』だが、この2020年5月28日に第4刷(2000部)が増刷される。これで合計、13,000冊が社会に向けて発行されたことになる。東本願寺出版では、「新書」という形式で、初めて世に問うたわけだ。まあ、あまり語ると、自画自賛になり、読むのも辟易と言われそうだが、言わせてもらえば、この本は「問題提起」レベルの本である。原文を私はこう受け止めたというレベルの本であって、誰かや何かの「公認」という意味合いはない。
歎異抄との正しい対し方は、「自分と歎異抄」とが正対することだ。それ以外にない。いろんな解説があっても、それはあくまで参考意見に過ぎない。究極は「自分」がどう受け取ったかということしかない。ここにも書いたが、「悪人」とは人間が決して定義できない言葉なのだ。私たちは知ってしまっていたのだ。「悪人」という言葉があるから、「悪人とは、こういうものだ」という固定観念を。もうすでに知ってしまっていた。子どもでも知っているのではないか、「悪人」という言葉の意味くらいは。ところが、この観念を歎異抄は木っ端みじんに解体してくれる。「あなたの考えている悪人は、私のいう悪人とはまったく違うのだ」と。もし自分のことが自分の知で「悪人」と分かってしまったら、そこには阿弥陀さんが必要ないということだ。阿弥陀さん抜きに「悪人」が分かってしまっているのだから。この「悪人」という言葉が使えるのは、阿弥陀さんだけだったのだ。人間には、その片鱗しかわかってはいなかったのだ。
阿弥陀さんという強烈な光源から、照射されてくるひかりに射貫かれる以外には、ない。
歎異抄は、人間が分かってしまっていることすべてを根底から問い返してくる力である。阿弥陀さんがご存じのようにお前は知っているのか。「阿弥陀さんがご存じのように」と、目の前のあらゆることを反問してくれる。それを歎異抄は、「たすけ」という言葉で暗示しているのではないか。