〈時〉に思う

静かな連休が流れている。その中に、朝から救急車が三台、サイレンを鳴らして通り過ぎた。この静けさは、もしかしたら非日常の中にあるのではないか、とドキッとする。同じ静けさでも質が違っている。たとえそうであったとしても、この静けさを垂直に掘り進むと、〈永遠〉に通じているように感じてしまう。そして、そこには親鸞や釈迦や、そして阿弥陀さんがいらっしゃる。「釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたもう(略)如来の遺弟 悲泣せよ」と親鸞は泣く。二千年以上前の出来事に対して、〈いま〉親鸞は涙している。この人も垂直に降りていったひとだと思う。もっと降りていくと「弥陀の本願信ずべし」だ。〈永遠〉である阿弥陀さんから、〈いま〉信ずべしと命令を受けている。
いま、「いかに生き延びるか」という「意味空間」で、娑婆は逼迫している。これも緊急の課題でものすごく大事なことに違いない。ただそれだけではないぞ、と叫ぶものもある。「なぜ生きるのか」という「意味空間」もあるぞ、と。娑婆の日常が止まってみると、この問いが改めて浮上してくる。この問いは、人間が問うことのできない問いだ。人間から問うても、答えはでない。むしろこれは〈永遠〉から、人間に問いかけられてくる問いだ。「人間が問う」のと、「人間が問われる」のと、まったく意味が違う。「人間が問われる」と、問われた人間は〈永遠〉に引きずり込まれていく。そこは、もはや「意味があるとか、ないとか」、「役に立つとか、立たないとか」、そんなことはどうでもよくなっていく世界だ。流れない時の世界だ。〈永遠〉とは流れない時だ。生と死が、火花を散らしている〈いま〉だ。阿弥陀のいのちがスパークしている。まぶしいくらいにスパークしている。この「万劫の初事」に立ち会っている。