意味がなければ生きられないと、昔は考えていた。しかし、いまは意味があろうがなかろうが、と思っている。何も自分で、そう思ったわけではない。そう思わせてくれたのは、阿弥陀さんだ。仏教は「成仏」を目的にした教えだというが、「成仏」がどういうことなのか、誰も知らない。お釈迦さんだって、そうだ。「成仏」を願っている間は、本当の「成仏」ではないのだから。「成仏」を目的としている間は、本当ではない。しかし、よくは分からないのだが、「成仏」を求めずにはいられない衝動があるのみだ。それは、人間は、みんな死ぬことを知っているからだ。
本当の「成仏」とは、「成仏」とは何かが分からなくなることではないか。何を目的にしているのか、どこに向かって生きているのか、私とは何なのか、そういうこと全体が分からなくなることではないか。そんなことは分からないよと、訴えているのが南無阿弥陀仏ではないか。それが「真智は無知なり」(教行信証・証巻)という意味ではないかと思う。人間は無知が嫌いだから、何かを知ったことの上に何かを築こうとする。でも、ほんとうは、知ったことの上に何かを築いても、それは砂上の楼閣だろう。生とは何か、死とは何か。そういうこと全体を手放せと迫ってくる。それを信心の行人は、「南無」と言ったのではないか。決して手放すことのできない私に、徹底的に手放せと訴えてくるもの。それが、切実な、生きた阿弥陀さんではないか。