鐘は打たれなければ、鳴らない。ただそこに鐘があっても、音は鳴らない。鐘は私だった。ここのところあらゆる法座や講座がコロナの影響で中止になった。すると私の中で、勉強するという行為が減少してしまった。本を読んでも、もうひとつ身が入らない。そして思ったのだ。私は法座や講座によって、学びの動機を頂いていたのだと。法座や講座があるから、学ぶのだ。質疑応答の文章を作ることも、私にとっては学びの動機であり、私自身の内部から何かが生まれる胎動だった。そう思うと、私は鐘だ。打たれなければ、鳴らない鐘だ。
何をいまさら、とも言えそうだが、私は能動的なものでなく、絶対受動で成り立っていた。私が、まずあって考えているのではない。考えさせられている私があっただけだ。