お釈迦様には阿弥陀さんがいない

「お釈迦様には阿弥陀さんがいない」と言ったら、誤解を受ける表現だと叱られた。確かにそうだ。浄土教を批判する人たちからすれば、願ってもない題材だ。いわゆる大乗仏教経典が成立するのは、紀元100年前後だ。つまりお釈迦さんが亡くなってから400年以上も経っている。『仏説無量寿経』もしかりだ。経典成立史の研究によると、400年前には阿弥陀さんは、まだ仏教に取り入れられてはなかったという。それなのに、『仏説無量寿経』では、お釈迦さんが阿弥陀さん(無量寿仏)の救済物語を語っているように書かれている。これは後代の経典制作者の「救済文学作品」と言ってよい。仏教的に言い換えれば「仏弟子たちが受け止めた限りの釈尊像」だ。だから「客観的」にお釈迦さんが実在して、そのお釈迦さんが説いたんだと力説する必要がない。お釈迦さんには、阿弥陀さんがいなかった。あるいは知らなかったかもしれないのだ。しかし、そのことと『仏説無量寿経』が語る「救済物語」が真実かどうかは別次元の話だ。問題は、「救済物語」が普遍妥当性をもっているかどうかという一点だ。親鸞も「正信偈」で、「如来世に興出したもうゆえは、ただ弥陀本願海をとかんとなり」(如来所以興出世 唯説弥陀本願海)と述べている。お釈迦さんが、この世に生まれたのは、ただ阿弥陀さんの救いの海の救済法則を説くためだったのだと。だから「客観的」に釈迦が実在したかどうかという問題次元を超えている。言えば、お釈迦さんが「客観的」に存在して、そのお釈迦さんが阿弥陀さんの救済法則を説いたという受け止めではなく、阿弥陀さんの救済法則を説かれたかたがおられて、そのひとがたまたまお釈迦さんだという受け止めだろう。この受け止めは、「如是我聞」で始まる「経」の原則だ。「是の如く我聞きたまえき」で始まる「経」は、「客観的」に仏陀があって、そのひとの権威で正しさを証明する言説ではない。ひたすら、「我」が救われたという、「我」が証明する「経」の真実である。親鸞が「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と受け止めたところに成り立っている「経」なのだ。我一人の救いを横に置いては成り立たない。一言で言えば、「タテ型の仏教」から「ヨコ型の仏教」へとシフトチェンジすること。それを教えてくれたのが親鸞だった。