人間には純粋な謝罪はできない

人間の謝罪には、どうしても自己弁護が張り付いて仕舞う。だから、懺悔と言っても、純粋な懺悔はできない。どうしても、謝罪をしている私を許して下さいという、要求が潜んでいる。
 謝罪をしているつもりが、謝罪をしている私を許せ、という要求を相手にすることになる。より強烈に謝罪をし続けることは、謝罪をしている私を許して下さいという、より強固な要求になっていく。
 懺悔をしている自分が見えたら、それは懺悔にはならない。
あ~あ~自分は、いま懺悔しているのだと思えば、懺悔をしている自分を眺めている自分が見つかってしまう。
 だから、純粋な懺悔など、人間にはできない。
自己意識がある限り、懺悔は成り立たない。

 善導は「三品の懺悔」と言っている。「上品の懺悔」は、身体と眼から血を流して懺悔すること。「中品の懺悔」は、身体から冷や汗を流し、眼から血を流す懺悔、「下品の懺悔」は、身体から冷や汗を流し眼から涙を流すこと、と。そして、どんな小罪でも懺悔すれば、重障を滅することができると言い、さらに流血・流涙できなくても、よく「真心徹到」すれば「三品の懺悔」をしたことと同じだと結論する。
「真心徹到」とは、「他力の信心」のことだ。
 謝罪にも、浅いものから深いものまである。阿闍世は父を餓死させた罪を後悔し謝罪している。まあ「懺悔」という言葉ではなく、「慚愧」ということばで語るのだが同じことだ。
 阿闍世は、無実の父を殺してしまったことをこころから悔いている。さらに悔いている自分を許そうとする自分が見つかってしまい、心身症にまでなっている。家臣たちは、そんな阿闍世には罪はないと、無実を訴える。しかし、罪は許されないのだと知っている阿闍世は、そのごまかしを受け入れない。
 そして、従兄弟であり、お抱え医師の耆婆により、慚愧することはひととして当然のことなのだと受容される。慚愧がなければひとではないのだと言う。さらに耆婆の勧めで釈尊と会い、慚愧から懺悔へと抜けていく。「慚愧」とは、罪を無罪化しようとするこころと、謝罪している自分に酔っているこころから抜けられない状態だ。つまり、「懺悔している自分」を裁いている自分が見つかっていない状態だ。釈尊は、ここにひかりを当てていく。
「懺悔している自己」を悪しとして裁く自己を私は「裁きの自己」と呼んでいる。この自己にひかりを当てて、阿闍世を「罪意識」から救う。つまり、罪を犯すこと以外に自己は存在できないという自覚である。だから、罪なき者として救うのではなく、一切衆生の罪と同化させて救うのだ。それが「無根の信」と呼ばれる。「信」には自己という根はない。「信」には根がない。それは広大無辺の世界こそが根だからだ。親鸞は、それを「信心海」とも言う。
 この展開が見事に、表現されているのが『歎異抄』第十三条だ。そこでは、結論として、こう述べられている。
「本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄、具足せられてこそそうろうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。」と。
 第十三条は、「本願ぼこり」をダメだと否定する異議者が問題視される。でも常識からすれば、「本願ぼこり」はダメだ。いくら本願が悪人を救ってくれるからといって、本願に甘えて、わざと悪事をすることはいけない。この批判はまっとうな批判ではないか。
 それなのに唯円は、それはダメなのだと言っている。唯円の主張のほうが間違っているようにも感じる。なぜダメなのか。それは、「本願ぼこり」はダメだと批判するひとも、実は「本願ぼこり」を犯しているのに、その罪が見えていないからだ。
 つまり、それは「自力の罪」である。「本願ぼこり」のひとがどのような「本願ぼこり」を行なっているのか。それは自己保身と自己弁護の煩悩をもっている以上、批判者も「本願ぼこり」なのだ。つまり、罪を犯している自分を、どこかで許しているということだ。
 もう一度、「本願ぼこり」について綿密に考えてみよう。
「本願ぼこり」とは、何をやっても、阿弥陀さんは許してくれる。むしろ、善事よりも悪事のほうが、より阿弥陀さんが好んで下さるという発想だ。その発想を前提にして、「敢えて」倫理的な悪を犯そうとすることだ。この「敢えて」というところが、社会的な倫理規範に抵触するので「悪事」が他者に見えてしまう。しかし、「敢えて」ではなくても、内心で自己肯定と自己弁護のこころがある限り、それは「本願ぼこり」と同質だと唯円は見ている。「敢えて」犯すひとは、阿弥陀さんに許されると思っているが、内心に犯すひとは、自己が自分を許そうとするひとだから、他者から「本願ぼこり」を犯していることが見えない。
 見えないばかりか、自分の罪を棚に上げて、「本願ぼこり」はダメだと他者を批判する。これこそが問題だと唯円は見ている。「本願ぼこり」で「敢えて」悪事を犯すひとも、内心で犯すひとも同じこころの構造をしているではないかと言うのだ。
 謝罪の問題とリンクさせれば、人間には「純粋」な謝罪は永遠に不可能ということになる。どこまで謝罪しても、自己弁護と自己保身は消すことができないからだ。それは、「煩悩不浄、具足せられて」いるからだ。
 しかし、それをよしとして許せない自己が残ってしまう。阿闍世が殺父の罪を悔いるこころは深かった。このよしとして許せない自己が、実は「自力」であり、「裁きの自己」だったと対象化されて、初めてその底にある自己へと基礎づけられる。その基礎づけの言葉が、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」である。それを受けて「願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。されば、よきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ」と結論される。
 この「宿業」とは「無我」ど同義語だ。自己などという実体はどこにもない。あるのは縁のみである。しかし、その縁の背景を辿れば、無始よりこのかたであり、広大無限の関係性に溶解される。自己弁護の煩悩も、自己から始発するものではない。そうさせられてそうしているという性質のものなのだ。煩悩も「宿業」という運動の中にあるのだ。
 ここまで広げて考えれば、「宿業」とは「世界」のことであり、それがそのまま「自己」のことなのである。だから、自己弁護の罪に怯え、「本願ぼこり」を恐れることからも解放される。これが第一条の「悪をもおそるべからず」だ。「自己」という実体があると考え、そこからすべてが生まれると固定化する「自己」が解体したのだ。「自己」という実体観が解体されて、「自己=世界」となったのだ。一切衆生が自己の身体となったのだ。
 こうなると、自分の「思い」とは、「行為」の後についていくものにさせられる。何をし、何を思ったとしても、実体はないのだ。すべて「宿業」の現れだから。その「宿業」の顕現を、ただただ引き受ける「自己」となる。「行為(三業)」は、まさに「宿業」の道理で動いていく。私は、その「宿業」でなされたことを受けていく器にされる。
 それを譬喩的に、「阿弥陀さんが主体になり、自己は客体にされる」と私は言っている。別の言い方では、「善いことも、悪いことも、すべて阿弥陀さんのせい」と言っている。そもそも自己には、「行為」を決定する権限はないのだから仕方がない。
 どこかの時点に、「自己」という「始点」を持とうとするところに、すべてのつまずきがある。「始点」などはないのだ。そもそもなかったのだ。