人間に純粋な涙はなかった

 人間に、純粋な涙はなかった。悲しくて泣くという場面が人生にはある。最愛の家族を失って流す涙。流す涙は、誰にも止めることができない。
 そのひとを失って泣くのは自分である。そのひとを失って困っているのは自分である。そのひとがいれば、泣く必要はない。そのひとがいなくなって、困り悲しんでいるのは私である。先立った、そのひと自身ではない。先立たれた自分自身である。
「友人を亡くした母は
 湯飲みの底を
 見つめたまま
 死は 残された者に
 訪れるのだ」(宇佐美友見『海、はじまる』)
「死」は、必ず「残された者」のみに「訪れる」のだ。厳密に言えば、「死」は先立ったひとには存在しない。先立たれたもの以外のところには、存在しない。先立ったひとを見ている、先立たれたひとにのみ存在する。 
 涙は、子どもが大事にしていたオモチャを取り上げられて流す涙と同じだ。オモチャを大事にするこころは、貪欲だった。貪欲が涙を流させるのだ。オモチャと最愛の家族を同じにするなと言われたが、悲しいかな、「悲しみ」は同じ構造をしている。
 人間に貪欲がなければ、「悲しみ」は起こらない。貪欲とは、単なる「貪りの欲望」よりももっと深いものだ。それは、自分だけを愛し、自分の都合だけを優先し、自分の正義だけに固執し、自己弁護と自己保身だけに明け暮れする深層意識のことである。「貪欲」は深層意識だから、それを人間は排除することができない。人間が生きるということは、貪欲なしには成り立たない。ときによっては、自己を犠牲にしてまで他者を助けようともすることもある。「自分はそのひとのために身を捨てるのだ」というヒロイズムを抱えながら。ヒロイズムもエゴイズムなしには成り立たない。
 天親菩薩は、「我が心、自身に貪着する」(『浄土論』)、そして「自身を供養し恭敬する心」という言葉で「貪欲」を見つめている。この「貪欲」を「貪欲」のままに生け捕りにすることを「遠離」という言葉で示す。「貪欲」を無くすことはできないし、無くす必要もない。ただ、それをあるがままに生け捕りにすることはできる、と。
「遠離」とは、現代の言葉で言えば、「対象化」だ。「対象化」とは、いままで、霧が懸かってもやもやして見えていなかった対象が、ようやく霧が晴れ、明確に見えるようになることである。
 霧が晴れ、「貪欲」が「対象化」されると、感情をコントロールしていた正体が明確になる。喜怒哀楽の感情は、「貪欲」が支配している。だから、「純粋な」感情は人間には起こらない。「純粋な」とは「無私の」、あるいは「平等な」という意味だ。感情が起こるところには、必ず「自己関心」が横たわっている。
 ところが、「貪欲」が「対象化」されると、「捨」という感情が生まれると『成唯識論』は説いているように読める。唯識では、「感情」を「受」という言葉で表わす。それで、「捨受」という言い方をする。「捨受」とは、いわば「非感情」のことだ。いかなる感情も起こらない状態とでも言えようか。もっと言えば、深層意識の感情である。
「捨受」は特殊なことではない。誰の深層にもあるものだ。そこに帰ればよいだけのことだ。
 親鸞が「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり・正信偈)」と言うのは、そういうことだ。「煩悩を断ぜずして」とは、煩悩を「対象化」してということだ。「涅槃」とは「捨受」のことだ。私は、それを「煩悩」と「本当の自己」を棲み分けるという言い方をしている。棲み分けるのだから、「煩悩」をなくすことではない。あっても「煩悩」のはたらきを失わせることだ。そうなれば、「煩悩」はあっても一向に邪魔にはならない。むしろ「煩悩」も可愛いものだと手なずけることができる。「煩悩」のペット化だ。 逆に、ちゃんと棲み分けられないと、「煩悩」は猛獣のように「本当の自己」を牛耳り、食い物にする。だから、棲み分けが大切だ。棲み分けされれば、「本当の自己」は、静寂域に留まれる。まあ「本当の自己」などというものはないのだけれど、便宜上、そのように名づけているだけだ。
 阿弥陀さんと名づけていても、そんなものが実体としてどこかにあるわけでもない。それと同様のことだ。「本当の自己」とは、阿弥陀と同じ構造をしている。自分にとっては、永遠の不可知なのだ。