「不在」の意味

 本来的に、彼女には会っていなかったのかも知れない。不思議な縁があって、美輪と48年前に出会った。それから家族となり、子ども三人を賜った。子どもが生まれる前、そして「子育て」を経て、やがて子どもも結婚し、両親を送り、元の二人に戻った。
 記憶というものは不思議で、楽しい記憶以上に、苦しい記憶のほうが、より鮮明に残るものだ。記憶が脳のどこに蓄えられているのか。脳科学でもよくは分かっていないらしい。 そして美輪が不在になり、早一年。彼女は「記憶の中」にしかいない。しかし、はたと思った。それなら彼女が生前、この世に留まっていたときと少しも変わらないのではないかと。
 私が出張で寺を留守にしているとき、彼女は私にとって「不在」だった。記憶の中には、確かに彼女はあるのだが、いま目の前にいるわけではない。この「不在」と、「死」を縁とした別れのどこに違いがあるのだろうか。それは長さだけではないか。出張に於ける「不在」と、「死」を縁とした「不在」とは、長さだけが違う。だから、「不在」という本質は変わっていない。そんなバカなことがあるかと思われよう。一方は「生きている」のだし、他方は「死んでいる」のだから、まったく違うだろうと。
 ただ「生きている」ということは、また会うことができるという期待の中に彼女を置いているだけのことだ。だが、この世には、そんな期待を裏切る出来事で満ちている。「行ってきます」という言葉を最後に、二度と会うことのできない出来事はたくさんある。
 ひとは別れるときに、「またね」とか「また会いましょう」という挨拶を交わす。でも、それがこの世の最後の別れの挨拶となるものだ。「これが最後のお別れですね」と言って別れることは、まずない。
 それはともかく、出張のときの「不在」と「死別」の「不在」とは、「不在」ということに於いて何ら変わりはない。その時、問題となるのは、彼女にまた会えるか会えないかという「生者」の期待感だけである。期待通りならば善しとし、期待が外れるならば悪しとするだけのことだ。
 私に於いては、という視点を外さずに見た場合には、そう言うことができる。
 彼女が「不在」となると、彼女の存在が、俄然、私の「記憶」の中だけに再現されてくる。彼女が生前、語っていたことや、仕草や、行動だけが「記憶」の中に蘇ってくる。彼女は、人間の「思い」を超えた場所に行ったのだから、それを「生者」はいかにしても捉えることができない。そうなれば、ますます「記憶の中の彼女」以外には、彼女と出会う場所はなくなる。
 これは、「生前」も「死後」も、共に同じ形をしているのではないか。つまり、ひとは他者と、これは家族であっても、そこに「不在」があるときには、必ず「記憶の中」にしか、そのひとは存在しないということだ。日常の、ほんの数分の間のことであっても、家族が目の前に「不在」のときには、そのひとは「記憶の中」にしか存在しない。
 彼女が買い物に行っている間の、数十分の「不在」であっても、私が思い出せるのは、「記憶の中」の彼女以外にはない。現実に、彼女は、目の前にいないのだから。
 やはり、人間は「記憶の中」の彼女以外とは、出会ってこなかったのではないか。彼女自身とは、出会って来なかったのではないか。さて、この「記憶の中の彼女」とどのように関係するかだ。
 そこに「弄び」が生まれる。「記憶の中の彼女」となった途端に、生者の「弄び」が発生する。「弄ぶ」のだから、それは生者のやりたい放題になる。
 たとえば、喧嘩をして口を利かない期間が生まれたとする。そのとき「弄び」が生まれる。まず、彼女の言い分が私の中に渦巻き、とても彼女を許すことができない、という「弄び」が生まれる。人間は、そのひとが目の前にいなくても、「記憶の中の彼女」を相手にして腹を立てることができる。「なんてやつだ」と「記憶の中の彼女」に対して毒づくこともできる。これが「弄び」だ。
 昨日の報恩講では、ハンドベルの演奏があった。彼女はハンドベルが好きで、何十年という間、報恩講にはグロッケンシュピールの演奏を聞いてきた。すると親切な聴衆のひとりが、私に向って、「奥さんの写真を持って聞かせてあげれば」と提案してきた。
 確かに、ドラマか何かで、生者が遺影を持って演奏を聞かせる場面を見たことがある。あんな姿が私の中に再現された。しかし、そんな姿が再現された途端に、私の中には、「そんなことは御免だ」という思いが起こった。なぜならば、彼女には演奏を聞くということが起こりえないからだ。もはや、人間界には存在しないのだから、音楽を聴く必然性がない。そんな娑婆の、「汚れた世界」に引き戻してはならない。
「写真を持ってきて演奏を聞かせる」などという「汚れた世界」に彼女を引き戻すことなどしてはならないことなのだ。「写真を持ってきて演奏を聞かせる」ということも、彼女を「弄んで」いることになる。ともに「記憶の中の彼女」を「弄んで」いるのだ。
 生者はどこまでも「弄び」たいのだ。自らの寂しさを紛らわすために。あらためて、「弄び」の罪を知らされた。