阿弥陀さんに本願はなかった

 10月13日に開催された静岡別院の公開講座のテーマは、「仏意惻り難し ―阿弥陀さんに『本願』はなかった―」とした。
 この「阿弥陀さんに『本願』はなかった」などというテーマは、おそらく誰も付けないテーマではないかと思った。阿弥陀さんが「本願」を発して、我々を救おうと誓われたのだから、「本願」がなければ、救いもないことになってしまうからだ。
 親鸞も『教行信証』(教巻)の冒頭で、「弥陀、誓いを超発して(略)群萌を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。」と書いている。
  それなのに、なぜ「本願」がないのか。実は、私も初めは、親鸞の言うように、まったくそのように受け取っていたのだ。
 ところが、あるとき阿弥陀さんが「本願」を発したと書かれているけれども、あれは我々を説得するための「方便説」であって、本当のことではないのではないかと思った。
 そもそも、「本願」の「願」とは、娑婆の言葉であって、阿弥陀さんには不要の言葉だ。ちなみに「願」をグーグルで検索してみた。すると「願(がん)とは、何かを強く望むこと、また神仏や目に見えない大いなる存在に祈り求めること、およびその気持ちや内容を指す漢字および言葉です。」
 これは人間の「願」であって、阿弥陀さんの「願」ではないと考えられる。だから阿弥陀さんの「願」と人間の「願」を一緒だと考えてはならない。それは確かに、その通りだ。 だが、人間であろうと阿弥陀さんであろうと、「願」という言葉の意味するところは、「願」がある限り、その願った状態が未だに実現していないという形式は同じだ。
 だから、「願」があるということは、そこが未だに実現していない状態が厳然としてあるということだ。それに疑問を感じた仏弟子・阿難は、阿弥陀さんは本願が実現して、ちゃんと仏に成ったのかどうかとお釈迦さんに問うている。
 お釈迦さんは、それに応えて「成仏より已来、おおよそ十劫を歴たまえり」と言っている。つまり、阿弥陀さんが本願を発したのだが、その本願は実現してもう仏になっているという。それも「十劫」の昔に、すでに実現されて仏になっているというのだ。
親鸞は、それを受けて「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」(「浄土和讃」)と詠っている。
 これは一体どういうことだろうか。
 そもそも、阿弥陀仏は当初、阿弥陀仏という名前ではない。初めは法蔵菩薩という菩薩だった。この菩薩は、あらゆる苦悩するものを救いたいと本願を発す。それで五劫の間、思惟し、兆載永劫の修行を経て、めでたく阿弥陀仏という仏に成ったと語られる。菩薩の願が成就した段階に「仏」という名前が与えられる。
 こうなると、我々はもうすでに法蔵菩薩の本願によって残らず救われていることになる。それも昨日今日の話ではなく、「十劫」という昔に、すでに救われていることになる。
 これをどう考えたらよいのだろうか。
 それを考えていたとき、阿弥陀さんは「本願」などを発している暇はないと直観した。もうすでに、「本願」が成就して、お前と一身同体になっているぞということだからだ。「本願」を発すということは、私と阿弥陀さんとの間に隙間がある。阿弥陀さんが私を救いたいという願いを発すということは、私がまだ救われていないということの証明になってしまう。そんなことはあり得ない。阿弥陀さんはお前と一身同体だぞとおっしゃっている。もう本願成就しているのがお前だぞと。もう救いの中に存在しているのだぞとおっしゃる。
 そうだったのか、私は阿弥陀さんと一身同体だったのか。阿弥陀さんが本願など発している余裕はなかったのかと気づいた。一身同体ではければ、私がこの世に存在することもできなかった。本願成就して生まれてきたのが私だった。
 厳密に言えば「身」は阿弥陀さんなのだ。ただ「こころ」がそれに反逆する。「こころ」は末那識だから、仕方がない。その反逆も阿弥陀さんのお手回しで、最終的には、その「こころ」も阿弥陀さんのお手回しだったのかと説得させられることになっている。
 何でこんな面倒な過程を経なければならないのかと言われても、私には分からない。ただ、そうなっているから、そうとしか受け取れないのだ。
 いかにも本願を発して衆生を救おうと誓われているように語っているけれども、あれは、もうすでに本願成就していることを教えるための「方便説」だったのだ。
 繰り返しになるが、いかにも阿弥陀さんが本願を発し、お前を救うぞと語りながら、しかし、本当は、もうすでに救いの中に摂め取られていたことを教えるのが「阿弥陀さんの救済物語」なのだろう。
 そのように語ると、すべてはもう救われた中にあるように結論づけられる。ただ、もしそれが結論になってしまえば、一つの安心感にはなるけれども、ビビッドに感じられる救いの醍醐味はなくなる。
 言葉を換えれば、こう言えるだろうか。「もう済んているから、まだ始まっていなかった」と。「もう済んでいる」は「本願成就」であり、「まだ始まっていなかった」は「発願」である。この「本願成就」から「発願」が発っていたのだ。「発願」から「本願成就」が発っていたわけではない。
 もっと簡単な言葉で言えば、救われているから、救われていない場所にあることができるとでも言えようか。もう済んでいるから、まだ済んでいない場所におれるのだ。
 ハードコア〈真・宗〉では、阿弥陀さんに本願などを発している余裕がないと言える。もう一身同体なのだから。そのことを教えるために、わざわざ本願を発してお前を救えなければ、私は成仏できないのだ、などと呑気なことを言った。それもこれも一身同体であることを教えるためだったのだ。救いとは、一身同体のことなのだ。もはや、阿弥陀さんには、「こうなって欲しい」などという呑気な本願を発している余裕はなかったのだ。
 でも阿弥陀さんに向って、「私はもう救われていたのですね?」と問えば、阿弥陀さんは、「まだだ」と応えられ、私が「まだ救われていなかったのですか?」と問えば、阿弥陀さんは「もう救われている」と応えられることだろう。
「まだ」という結論も、「もう」という結論も、両方とも与えないのが阿弥陀さんの真の救いである。ここに救いのダイナミックな実働がある。