なぜ法然の上に阿弥陀如来を感じ取ったのかは親鸞自身にも分からなかった

 親鸞は法然に会って〈真・宗〉の眼が開いたと言っている。そして法然を師と仰いだ。しかし、これは「人間法然」に会ったのではないな。法然の上に表れた阿弥陀さんに遇ったのだ。だから、親鸞は「阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ」(「高僧和讃」)と詠ったのだろう。
 そんなことは当たり前じゃないかと思うかも知れないが、「人間法然」と「阿弥陀如来が化した法然」は違う。親鸞は法然の何に会ったのか。確かに法然の考えに会ったのだろう。でもそれが法然の考えであれば、それは「人間法然」に会っただけのことだろう。そうではなく、法然の上に阿弥陀如来の何かを感じ取ったということではないか。
 だから、それは法然でなくてもよかったのかも知れない。なぜ法然の上に阿弥陀如来を感じ取ったのかは親鸞自身にも分からなかったのではないか。明らかに法然の考えと親鸞の考えは違っているのだから、法然の考えに会ったわけではない。それだけであれば、「人間法然」に出会ったまでのことだ。法然の考えを切っ掛けにして、法然を超えた阿弥陀さんに出遇ったということだろう。
 だから、親鸞が、「阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ」(「高僧和讃」)を、もし法然が聞いたとしたら、「そうなんだ。でも、ワシは知らんけどな」と応えたのではなかろうか。「ワシは阿弥陀さんでも何でもないぞ。愚かな凡夫だぞ」とケロッとしていたように思う。
 弟子が師の上に阿弥陀さんを感じ取るかどうかは、すべて「受け止め手」である弟子次第である。それは師自身にはまったく無関係の出来事なのだ。
 たぶんイエスに、弟子たちが「神の子」と言えば、同じように「ワシはしらんけど」と応えたに違いない。
 もし親鸞が法然に出会うことがなければ、そこに阿弥陀さんを感じ取るということは起こらなかったことは間違いない。でも、それはたまたまのことであって、誰でも法然に出会った者が、必ず阿弥陀さんを感じ取るかどうかは別問題だ。
 師を通して阿弥陀さんに遇うということは、弟子の深層に阿弥陀さんとの絶対関係が開かれたということではないか。師を通して、自己の真相に埋もれていた阿弥陀さんに遇うのだろう。そのためには、師という他者を媒介とするということだろう。
 まあ、この世を生きているのは自己だけであり、自己以外に生きているものはいないのだから、〈一人〉の責任に於いて、そういうことが言えるように思える。
 いままで言ってきた「阿弥陀さん」とは、いまだ出会ったことのない時間、いまだに生きたことない空間、いまだに出会ったことない自分の象徴である。人間が生きる時間は、いつでも未だ経験したことのない時間に違いない。そこに「阿弥陀さん」が有るのだ。
 目と鼻の先よりも、もっと近いところに。