人間は、何かを考えた後でしか、何を考えていたかを知ることができない。だから、あらかじめ何を考えるかは、私にはまったく知らされていない。いかにも、人間は自由に考えているように錯覚している。考えることくらいは、人間の自由だと思っているようだが、本当は違う。本当は、考えさせられて考えているのだ。これが真実。
だから、「何が」考えているのだろうか。あらかじめ「自分」という存在があって、何かを考えているようなのだが、本当は、そんなものはない。ただ考えてみれば、「自分」という主体があるように思っているだけだ。本当はないのだ。無実体なのだ。コトであって、モノではないのだ。
こじつければ、考えさせているのは阿弥陀さんなんだ。まあそんな実体はないのだが、そう呼んでみたいだけだ。
しかし、何かを考える前には、何を考えるかが「自分」には知らされていないなどという単純なことが、実は驚天動地のことだった。こんな単純なところにも、他力がはたらいていたとは。驚くばかり。親鸞も「噫、弘誓の強縁、多生にも値い叵く」(『教行信証』総序)と、ため息を漏らした。自分という因はない。あるのは縁のみという驚きだ。「噫」とは「ああ~!」というため息の声だ。〈真実〉に人間が関わられたとき、人間には「噫」しか生まれない。
でも、「他力」という言葉を使った途端に、また「他力」というモノをイメージしてしまうから人間は厄介だ。言葉は「言の葉」であり、その起源は「コトの端っこ」という意味だ。事実はコトであって、人間には捕まえることができない。そのコトの一部分を言葉に変えて、モノ化する。モノ化して、実体化し、分かったことにする。
だから、「他力」という言葉を使った途端に、「他力」と「自分」というコトがモノ化して分裂する。つまり、「自分」は自由意志で考えているのではなく、阿弥陀さんの「他力」によって考えているのだ、などと考えてしまう。もはや「自分」というモノがあるという前提で、「他力」を考えてしまう。これも間違い。
言葉は「荒ぶる神」であり、コトをモノ化させることで、そのひとに世界(幻想)を作り上げてしまう。言葉がなければ、そんな幻想を作ることはない。でも、もうすでに人間は言葉を持ってしまったのだから、後戻りはできない。こうなったら、「荒ぶる神」を「荒ぶる神」として見破り、この「神」を人間解放の使徒に変えてしまえばよいのだ。「荒ぶる神」を、「飼い慣らされた猫」に変身させるのだ。
人間は言葉以前に戻ることができない。聖書は「初めに言葉ありき」というけれども、言葉を持った途端に、「本当の神」と縁が切れたという意味だ。そして「神」という意味を捏造し、その「神」が何かを人間に伝えようとされていると考えてしまった。つまりは、「神」という観念を持つことで、「神」を人間のために使い始めた。「神」を人間のオモチャにした。「神」を「神」として語る人間がいるだけで、そんな「神」が実体としてどこかに存在するわけでもない。
これは阿弥陀さんにも当てはまる。そんな実体はないからだ。阿弥陀さんと語っている人間がいるだけなのだ。語りたい人間がいるだけだ。物事の本質は、人間には決して分からないのだから。「そもそも」分からないし、分かる必要もないし、とうとう分からないで救われていくのだ。