「そもそも」教

 女房が「死」ぬというのも、すべて阿弥陀さんのの教育だった。こっちは、まさか!という「思い」だけれど、それもこれも阿弥陀さんのの教育。
 これはまったく悲惨なことではない。まあ、娑婆的に考えれば「悲惨」。しかし仏法的に考えれば、「教育」だ。
 女房の「死」は、人間の「そもそも」を教えてくれたのだから。「そもそも」人間は一人で誕生する。それは縁は両親だが、生まれるのは一人だ。そして娑婆での生活があれこれあって、最後は、一人で「死」んでいく。生も「死」も、一人以外にはない。これが人間の「そもそも」のあり方だ。そんな単純な、当たり前な、あっけらかんとしていることを忘れていた。それを思い出させてくれたのが、女房の「死」。
 だから有り難い。人間の「思い」は、ついつい「そもそも」を忘れる。ということは、〈真・宗〉とは、人間の「そもそも」を教えてくれる装置だったのか。まさに「そもそも」教だ。
「そもそも」人間は意味が分かって生まれてくるわけではない。でも「思い」はいつでも「意味」を貪りたいから、「生」に意味付けしたくなる。そして「そもそも」を忘れさせる。「意味」に囚われているから、「どれだけ生きても死ぬんじゃ意味がない」などと悲観してしまう。それは「意味の病」に取り憑かれた愚痴だ。
 そして阿弥陀さんは、「そもそも」へ帰してくれる。「そもそも」人間の生に意味があるわけでも、ないわけでもないという地平へ出させてくれる。
「そもそも」とは目で見ることができない。「そもそも」、眼は「意味」しか見ることができないから。「意味」に汚染されるまえの「そもそも」の世界を見ることはできない。眼は「貪欲」だからだ。
 眼で見ることはできないよなぁと、「そもそも」は囁いてくれる。でもいつでも、この世は当てが外れるから大丈夫だ。当てが外れれば、いつでも「そもそも」が囁いてくれるから。そして宇宙が始まる前に戻してくれる。「そもそも」は宇宙からの囁きだったのか。
 そう思ったら、やはり〈いま〉という時は新鮮だな。まだ生きたことのない〈いま〉だから。人間には未知未開の〈いま〉だから。何が起こっても大丈夫。地震や事故や、何が来ても、やがて「そもそも」へ帰っていくだけだから。
 それで緩和ケア病棟は穏やかだったのかも知れない。娑婆的に言えば、緩和ケア病棟は「死」という墓場を目の前にした絶望の場所のように見える。しかし、仏法的に見ると、穏やかで静かで温かい場所だった。女房の見舞いに病棟を訪れるたびに、それは感じた。もうこの病棟から「生」の世界へ戻っていくひとはいない。「生」は突き詰めれば、生老病死の世界だ。この場所は、もう二度とそんな世界へ戻っていく必要がない。ある意味で、この世を超越した場所が緩和ケア病棟だ。本当に「緩和」が本質となった場所なのだ。
「そもそも」だけが頼りだな。「そもそも」と根源を問うていくと、深淵が開かれる。無色透明な深淵が広がっていく。
 ひとは、夜になると、この深淵を見つめながら上を向いて眠る。上を向いて眠らないひとはいない。この深淵は宇宙。宇宙を目の前にして、すべてのひとは眠りに就く。人類は、何十万年も前から上を向いて眠ってきたのだ。宇宙と対話しながら。