宗教は啓蒙であってはならない。啓蒙などという傲慢は捨てなければならない。そんな暇があったら、汝の足下を掘れ!だ。
宗教は「いいひと」を目指そうとする。みんなが「いいひと」にならなければならないと考えてしまう。自分は我慢してもひとのために尽くすものだとか。少しでも差別をしない人間にならなくてはと。品行方正で優しくて正直で勤勉で素朴。そんなものを目指してしまう。
それはうわべだけの塗装であって、本質は、「煩悩具足の凡夫」であることを忘れさせてしまう。
まあこの世は「いいひと」だらけだ。一人も「悪人」などというものは存在しない。
そもそも「悪人」などは、阿弥陀さん抜きには存在しない。「いいひと」に成ろうとしている善人だぞと、阿弥陀さんから叱られた言葉が「悪人」だから。
もともと、真っ黒なのに、上辺だけを白に塗装しようとしている。
どこに「煩悩具足の凡夫」などがいようか。居たとしても、そんなのは、自分で自分のことを「煩悩具足の凡夫」だと思っている程度のことで、本当の「煩悩具足の凡夫」ではない。「煩悩具足の凡夫」を肯定する善人と、「煩悩具足の凡夫」を否定する善人がいるだけ。どこにも「悪人」はいない。
しかし、どの宗派も開祖だけが立派だから、後から行く者はみんな劣等生ばかりなってしまう。仏教もお釈迦様が立派過ぎたので、後から行く者は劣等生だらけになった。日蓮大聖人などと持ち上げるから、後から行くものは、とてもとても聖人には及ばない存在となってしまった。
そこへ行くと、うちの開祖は全然立派じゃなくてよかった。「立派」などという言葉とは無縁のひとだったから。「愚禿」などと、一生涯、言い続けてくれたから。
それで後から行く者は、ようやく息が付けるというものだ。親鸞は、自分のような生き方をしなさいなどとは一言も言わなかった。お恥ずかしい一生だったと言ったはずだ。そして、自分を手本にしてはならんぞ、「面々の御はからい」だぞとおっしゃった。
電車の線路を電車自身は乗り換えることができない。電車は自分の線路の上をひた走るのみ。決して隣の線路は走れない。この世には「私」しか生きていないということだ。教団とか宗派とか○○教などというのは、全部幻想である。間違いないのは、一個の人間。〈絶界の個〉があるのみ。
その人間が、いま・ここにいる不可思議。宇宙開闢の過去と宇宙消滅の未来とが、いま・ここでスパークする。これこそが阿弥陀さんが成就された姿だった。それを「自分が」という思いで受け止めてはダメだ。「阿弥陀さんが成就された自分」と受け止めるべきだ。「主語の自分」ではなくて、「述語としての自分」にならなければならない。阿弥陀さんの述語となった我である。
そもそも「自分」などという実体はないのだから。ただ「自分」という「思い」があるのみ。でもこの「思い」が一番厄介だ。人間は一生、この「思い」に馳せ使われる。「思い」はいかにも私は悪者ではありませんよというような顔をしているから実に危ない。悪者の素振りは見せずに、人間をコントロールしている。
だが、「思い」を自分でコントロールしようとするから、逆に「思い」にしっぺ返しを喰らう。「思い」を自由に野放しにしておけばよいのだ。「自分」は「思い」を自由に野放しにできる牧場になればよい。そうすれば「思い」という野生馬は思う存分、牧場の中を駆け回ることができる。それが野生馬を調教する一番の方法だ。それが「遊煩悩林現神通」だ。