テレビでA級戦犯を靖国神社に合祀したことをやっていた。あれも妄念妄想だと感じた。何を合祀したというのか、ただ「意味」を云々しているだけじゃないか。合祀する実体などどこにもない。名前を書くだけで、骨があるわけでも、たましいがあるわけでもない。具体的な事物は何もない。何もないものを合祀したと言っているほうも妄念だが、それを合祀したと言って騒いでいる方も妄念だ。妄念と妄念がぶつかっているだけ。
考えて見ると、人間は無実体の「意味」を云々していて騒いでいる。「金」もコインは金属だし、紙幣は紙だ。でもこれはなければ不便だ。でも事物としての「金」が欲しいわけではない。「金」の持っている「意味」が欲しいのだ。
1,000円を出せば、1,000円の対価のものと交換できる。つまり、交換価値だ。1,000円を出せば、千円分のサービスを受けられる。この交換価値が目当てなんだ。それで、以前、御徒町で四億円の入ったスーツケースを奪った強盗がいた。四億円だと、たとえ紙幣であってもケースに入れれば40キロにもなるそうだ。これは大変な御苦労だ。彼らが運ぼうとしたのは「紙」ではない。「紙」の持っている交換価値だ。
でも、本当はものには価値がない。便宜上、価値があることにしようぜと人間界で取り決めているだけだ。この取り決めをもって「貪欲(トンヨク)」を満たそうするのだ。だから、相手が、そんな取り決めをした覚えがないと拒否すれば、金の価値は一気に消滅する。
河合隼雄さんが、こんなことを言っていた。
「私がタクシーに乗って千円札を出す。これは使えませんよとタクシーの運転手が言ったとしたら、びっくりしますね。本当の金を出しなよ、本当の金を、と言われるとびっくりしますね。」(『物語と人間の科学』岩波書店)
金は運転という労働に対する対価である。だから、タクシーを降りるときには、金銭を支払うという「約束」が前提になっている。しかし、それはあくまでも資本主義という世界の中での「約束」であって、それが「本当」であるかどうかは分からない。運転手に「本当の金を出しなよ」と言われたら面食らうだろう。「本当の金」とは、凄い言葉だ。
でも、うすうす我々はそれを感づいている。だから、レストランで対価の金銭を支払っても、「ごちそうさま」などと礼を述べる。タクシーで代金を払ったあとに、「ありがとう」と礼を述べる。それは、金銭の対価に見合った労働力を提供しているだけだから、「本当」は礼などを述べる必要はない。それが資本主義の論理だ。しかし、それでは済まないものを人間は感じてしまう。
もし調理人が調理をしなければ、目の前に料理は並ばない。もし運転手が運転をしてくれなければ、自分は家に帰ることもできない。そこにひとの存在が前提としてあって、そのひとに対する謝念がある。金はあくまでも、その恩恵に対する礼金なのだろう。「本当」は恩恵なのだから、それを金銭で表わすこともできない。取り敢えず資本主義という「約束」の範囲内で支払っているだけだ。それが「本当」の恩恵の表れであるかどうかは分からない。こころはモノで表現することはできないから。この忸怩たる思いが「ごちそうさま」とか「ありがとう」という言葉となって表白されるのではないか。
この「本当」という言葉を持ち出すと、すべてが〈真・宗〉に結びついてしまう。〈真・宗〉とは、「〈真実〉を生きる基準にする」という意味だから。この〈真実〉を基準にすると、A級戦犯の合祀云々も「妄想」だと見えてしまう。人間にとっては、「事物」以上に「意味」が大問題なのだろう。「事物」は眼に見えるから、混乱することは少ない。でも「意味」は眼に見えないから、実に恐ろしいしキリがない。
「意味」に取り憑かれた人間は、「意味」を満たすために狂気を生む。近頃の殺人事件は、「元夫」とか、「元交際相手」に因るものが目に付く。相手との復縁という「意味」に取り憑かれての犯行だ。トランプ大統領は、メキシコ湾をアメリカ湾と名称変更したとか。「事物」そのものはメキシコ湾でもアメリカ湾でもない。ただ「意味(名称)」に取り憑かれているだけだ。「事物」には本来名前がない。名前のないものに人間が勝手にレッテルを貼って騒いでいるだけのことだ。これも幻想だ。
この「意味」とは、「貪欲」が生み出す幻想なのだ。自分の得になり、自分が気持ちがよく、自分が納得するためならば、死に物狂いで、それを実現させようとする。
しかし、そんなもので満足したとしても、そんなものは「一瞬」のことで過ぎていく。 食は一時の飢えを凌ぎ、性も一瞬の快感。財は一生の貧を防ぐ。そこに「永遠」はない。逆に、「貪欲」とは、「永遠」になくならないものを求めていることの証かも知れない。〈真・宗〉とは、この世で一番の贅沢を求めるものかも知れない。この世のものでは満足できないし、満足してはならないという叫びだから。