「元号」からの問いかけ

年に2回、東京教務所から発行されている「東京教報」の巻頭言を2018年から依頼されている。178号がこの度発行されたので、ここに転載しておく。おそらく教区内のごく少数の方の目にしか触れないと思うので、それではこの言葉たちがあまりに可哀想なので、転載を決めた。
テーマは「元号からの問いかけ」
 
「元号」とは、「古代中国の前漢の武帝の時代に始まった制度で、皇帝の時空
統治権を象徴する称号」(ウィキペディア)である。つまり、「天皇が統治支
配する時間・空間」のことだ。政府の元号選定論議では、中国由来を排除し、
国書である万葉集から「令和」を選んだとも言われている。ここに「日本人固
有の尊厳」を確立するのだという動機が見える。日本人は、昔から「日本人固
有の尊厳」を確立しようとするとき、諸外国の文化、つまり仏教等の外来思想
を排除してきた。それも国家という共同幻想体であれば、そういう力学がはた
らくのもやむを得ないことかもしれない。私は、それを政治的文脈でなく、信
仰者のアイデンティティの文脈で考えている。
 私は元号を使用するとき、「ためらい」を感じる。それは仏教導入時の曽我
氏と物部氏の争い、さらに「承元の法難」、さらに芋づる式に明治期の廃仏毀
釈、そして太平洋戦争までをも連想してしまうからだ。
 煎じ詰めると、戦時下で「天皇と阿弥陀仏の本願は同様であると思ふ」と語
った教学者のアイデンティティはどのような形をしていたのか。つまり「日本
人としての私」か「信心の行者としての私」か。これは「日本人」にとって、
実に根深い問題である。そしてそのふたつは自分の中でいかなる関係にあるか
が問われるべきだ。決して、それは二者択一の問題でなく、主客の問題として
問われるべきだろう。
 「過去は未来の鏡」だから、これは決して過去の問題ではなく、来るべき未
来の問題である。「信心の行者」にとって「元号」は問題提起として、つねに
眼前に存在しているのではないか。