一昨日、教学館でお話をしていて気づいたのだが、親鸞が大切にした「信」という文字そのものが自力文脈の文字だった。そう思うと、経典から論書から、動詞はすべて自力文脈の文字だった。「信」ばかりでなく、人間が使う「動詞」はことごとく自力文脈だった。
だから、親鸞は「信」が自力文脈なので、それをわざわざ「他力の信」と形容しなければならなかった。「信」が自力文脈だということは、「信」という文字を見た途端に、我々の頭の中には、「人間が何かを信ずる」という文脈で受け止めてしまうということだ。
それはそうなのだ。そもそも「信」とは、人間界で、ずっと昔からそのように受け止められ続けてきた用語なのだから。
それを親鸞は、大間違いだと気づいた。本当は、「信」という言葉で語ってはダメなのだ。「信」という言葉を使ってしまったら、もう自力文脈に乗っ取られてしまうから。でも「信」という自力文脈の文字を使わざるを得なかった。それは自力文脈に乗っ取られて、その上で、自力文脈に違和感を感じさせ、それを他力文脈へと置き直すために。
「もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて」(自然法爾)だ。最初は、自力文脈に生きている人間に誤解させ、阿弥陀さん助けて下さいと祈願させ、その上で、そんなことは端から必要ではないぞ、他力文脈に転換して、迎え入れて下さる。「はからわせたまいたる」と「はからわせて」て下さるのは阿弥陀さんのはたらきだ。それ全体が阿弥陀さんの「救済物語」の中で起こっている出来事だ。
言えば親鸞にとっては「信」と言おうが「願」と言おうが、同じ意味として受け取られていた。「信」も「願」も阿弥陀さんのはたらきであって、そこに自分がまったく介入していないからだ。「信」も「信ぜよ」だし、「願」も「願ぜよ」であって、自分は徹底的に、阿弥陀さんの命令を聞くのみだ。まあ命令を聞く自分などもないのだ。そうやって、「信」の主体を奪うのだ。「信」という言葉を見た途端に、間髪を入れずに起こってくる「自分が信ずる」というときの「自分」が奪われてしまうのだ。「自分」が奪われなければ「他力」にならない。
そもそも、我々の生の〈真実〉は「諸法無我」だ。すべてにおいて「因」は存在しない。「因」がないということは、すべてに於いて初めがないという意味だ。自己存在はもちろん、この宇宙にも初めがない。これが〈真実〉だ。あるのは「縁」のみ。
「縁」のみということは自由だ。すべての出来事に於いて「前例」はないということだ。人間には、初めはないのだ。一切合切が流れだ。業の流れの中に漂う丸太だ。
この業の流れは、宇宙の法則だから有り難い。