生きていると「分からない」ことだらけだ。なぜ雨が上から降るのか。なぜ降ってきた雨粒が水面に落ちると円形の波紋を作るのか。いつ地震が起こるのか。なぜひとは生まれてくるのか、なぜ死ぬのか。なぜ人間として生を受けたのか。なぜゴキブリではなかったのか。なぜ男性という生を受けたのか。なぜ日本人として生まれたのか。なぜ平安時代ではなく、現代に生を受けたのか。なぜ私はこの両親から生まれたのか。
なぜ宇宙は存在しているのか。宇宙はいつ始まって、いつ終わるのか。
死ぬのに生きる意味はあるのか。では何のために生きているのか。どうなったら自分は本当に満足なのだろうか。また自分は結局どう成りたいのだろうか。考えれば考えるほど分からない。
しかし、「分からない」に対して、決して納得しないものがある。それが人間の「知性」というやつだ。こいつは「分からない」と不満で不安で、何とか「分かろう」とする性質を持っている。「分かった」ことだけを愛そうとする。でもこいつは「分かる」までは、何とか「分かろう」とするのだが、万が一、それが「分かってしまった」ら、一気に「分かろう」としていたものの魅力が失われる。
孫がオモチャを欲しがる。オモチャを手に入れ、それを「分かりたい」のだ。「分かって」、それを味わい尽くしたいのだ。そして買ってくれるまで執拗に欲しがる。近頃の孫は、策略家だ。いま、手元にお小遣いがないのは分かっている。そうしたら、将来もらえるであろう小遣いを前借りしたいと言い出す。
年末のクリスマスにはプレゼントがもらえるだろうから、それを諦めてもよいという。それを諦める代わりに、プレゼント代になるであろうお金を前借りさせて欲しいという。その策略があまりに見事で、実利に適っているように思え、渋々お小遣いを与えてしまった。それで、とうとう欲しかったオモチャを手に入れた。しかし、オモチャを手に入れたら、やがて数日も経つと、それに飽きてしまう。手に入れる前までは、あんなに執拗に欲しがっていたのに、手に入れた途端に、魅力を失ってしまうのだ。大人も「元子ども」だから、少なからず身に覚えがある。
結局使い果たし、お小遣いがなくなる。だが今度はお正月のお年玉を前借りしたいと申し出た。さすがにこの申し出には応えられなかった。賭博で負けが続き、サラ金に手を出すギャンブル依存症の卵になりかねないからだ。
それはともかく、老いも若きも、手に入れてしまったもの、つまり「分かって」しまったものに対しては魅力を失ってしまうのだ。ということは、人間は、本質的に、「分かって」しまっても、決して魅力の失われない何かを求めているのかも知れない。
でも、それは「知性」には適わない夢なのだ。「知性」が多くを脳に負っている以上、その脳を支えている「身体」に叶えてもらうより仕方がない。「知性」が表層であれば、「身体」は深層である。そもそも「知性」は「身体」のお世話になってる。この「身体」はどこから来たのか。それは「知性」よりも、より根元的なところからに違いない。そして「知性」の表層から「身体」の深層へと降りていくと、そこには「分からない」大海原が横たわっている。
ここまで深層に降りてくると、「分からない」が不満や憤懣ではなく、御利益に変化する。
それは、そもそも「分からない」のだから、「分かろう」とする「知性」の無駄な努力を完全に消してくれる。「分からない」は、我々が生きていることの大地ではないか。これを「本来性」と言ったりするが、もともと「分からない」ところから生まれ、もともと「分からない」ところへと去っていくのだ。
そこは「分からない」の豊かさが全開の場所だ。それを「浄土」という譬喩で言ったりする。また、〈真・宗〉の本尊が、「分からない」という名前だから、これは絶対安心を生む。「阿(=無)・弥陀(=量)」とは、「知性」では量れ無いよ、という意味だ。「分からない」に対して感じる不満や憤懣は、「知性」の悲鳴だったのか。
でも「知性」君、安心したまえ。ここは「分からない」があふれかえっている、君の故郷なのだから、安心して倒れてしまいなさい。