死者差別

 ひよんなことから、『虚空』という同人誌に原稿を頼まれ、「死者差別」というテーマで書かせもらったので、ここへ転載する。

 人間は、つまり生者は「死」を知っているのだろうか。そう問うてみると、「死ぬことを知らない人間はいないだろう」と反論される。私も「死」を知っているのだから、そんなことは当たり前だと思われる。
 しかし、それでは「死」を体験したひとはいるのかと問えば、どうだろうか。おそらく「死」を体験したと公言できるひとはいないだろう。なぜならば、「死」を体験するということは、「これが死ぬことかと理解する機能が停止していること」だからだ。つまり、「死」は知っているけれども、「体験」したことはないというのが正確な言い方だ。この違いは大きなことだ。「死」を知っていると思うのは、誰か、他者の「死」を見て、「あれが死だ」と知っているということだ。自分以外のひとの「死」や、他の生き物の「死」を見て、「死」を知っていると思っているのだ。
 だから、自分の体験としては「死」を知らない。「死」は二人称か三人称の死であり、「一人称の死」は体験不可能である。つまり、「死」を本当の意味で知っているとは言えない。「死」はどこまでも、「人間の観念」の中にしかないのだ。
 いや、「死」は生物の宿命であって、人間以外の生き物も「死ぬ」だろうと思うひともいるだろう。ところが、そこにも落とし穴がある。人間以外の生き物は、「死」そのものを知らないからだ。厳密に言えば、「庭に鳥が死んでいた」として、それを「死んでいる」と見えるのは人間だけなのだ。「鳥」自身に「死」はない。それを「死」と見ている人間にだけ「死」が受け取れるのだ。だから、「死」は人間にしかない特殊な「意味現象」である。
 そこまではよいのだ。「死」を本当には知らないということが分かっただけでもよいことだ。「死」は生理的なことでも、物理的なことでもなく、「死」は観念だと分かれば、「死」を超える術がある。
 ただその次が問題なのだ。「死」を本当には知らないのにも関わらず、生者は「死者」を差別的に扱う。生者は、「死者」をどのように見るかと言えば、「冷たいもの・動かないもの・寂しいもの・ああはなりたくないもの・汚れたもの・暗いもの・不気味なもの」などと感じる。「命あっての物種」などという言い方があるのは、それの反動だ。どんなに悲惨な状況であろうとも、いのちがあっただけでも幸いと思わなければならないという意味だろう。この世でどんなに素晴らしい生活を送っていても、「死」を突きつければ、そんな素晴らしさは全部、吹っ飛んでしまう。
 それで人間は、「死」の観念とともに「死者」を「生者」の世界から排除した。この世は「生者」だけが住む場所であり、「死者」はいないものにしたいのだ。「死」を「不幸」の極まりとして、「生者」の「幸福」を阻害するものとして排除する。そこに「生者」による「死者」への差別が潜んでいる。
 差別を生んでいる観念が、「生は幸せ、死は不幸」という観念だ。それを当てはめれば、「死者」とは「最大の不幸」と見えてしまう。そこから、仏教には「供養」という観念が生まれたのだろう。「生者」が「死者」へ供養を捧げることによって、「不幸」の状態から、「幸福」の状態へ、つまり「成仏」させようと考えた。もともと仏教は、自己自身の、つまりこの世に於ける個人の成仏以外に関心はなかった。しかし、やがて人類が生み出した「他界観」をもとにして、「来世」に「成仏」の時点をずらした。さらに、自己から他者へと視点をずらし、この世で「成仏」できなかった人間を「来世」で「成仏」させるために、生者(他者)が「追善供養」をするという発想が生まれた。
 しかし、なぜ「死」を忌避し「死者」を差別するのかと言えば、それは忌避させる煩悩がはたらくからだ。それが「貪欲(とんよく)」という煩悩だ。「貪欲」とは、自分にとって都合のよいことのみを貪り、不都合なことは徹底的に排除するという無意識的欲望である。
 私は、二千二十五年十一月一日に、四十六年間連れ添った伴侶に先立たれた。伴侶は六十六歳でこの世を後にした。そのことを縁として「悲しみは貪欲の悲鳴なり」という言葉が回向されてきた。伴侶を亡くしたときには悲しみの感情が起こった。しかし、この悲しみは純粋なものではなかった。私を悲しませているものは、「貪欲」というドス黒いものだからだ。自分にとって伴侶を失うことは、最大の不利益である。ただ、伴侶を悲しんでいるように見えて、実は自分を悲しんでいたのだ。あたかもお気に入りのオモチャを取り上げられて泣きわめいている幼児と同じだった。伴侶をお気に入りのオモチャに仕立てていたのが「貪欲」である。これは最強のエゴイズムであり、人間の「愛」とはエゴイズム以外にはないことが分かった。このエゴイズムを侵そうとするものを徹底的に排除し、エゴイズムをどこまでも貪ろうとする。
 そのように感じたとき、伴侶を悲しむことは逆に伴侶を冒涜しているようにすら感じた。悲しみは「貪欲」が自分の欲望を満たせなくて涙を流している姿だからだ。そこには伴侶はいないのだ。あるのは自分の「貪欲」の悲鳴だけだった。「貪欲」が欲を満たせずに挫折し涙を流している姿だ。だからと言って、伴侶を失って泣いてはいけない、泣くことは罪だと言おうとしているわけではない。伴侶を失って涙を流さない人間は、人間とも言えない。人間の感情は「意志」で制御できるものではない。煩悩は「起こる」ものであって、「起こす」ものではない。
「生者」が「死者」をこの世から排除し、「不幸」として差別するはたらきそのものが「貪欲」の仕業なのだ。このように、あまりに赤裸々に「貪欲」が抉り出されてみると、「貪欲」と渾然一体になっていた「自己」が分離されてきた。いままでは、「貪欲」が「自己」を悲しませているなどとは思ってもみなかった。悲しみは純粋なものだと感じていたから、悲しみに飲み込まれてしまっていた。ところが悲しみが貪欲の悲鳴だと気づいてからは、「貪欲」の詐術に騙されなくなった。
 悲しみが「貪欲」の詐術だと分かると、悲しみの感情に「自己」が乗っ取られなくなった。「貪欲」は決してなくすことはできない。無意識的エゴイズムだから。ただ、「貪欲」と「自己」の棲み分けは可能なのだ。この棲み分けができるようになって、初めて伴侶との「正しい」関係が開かれた。伴侶はどこに往ったのか。それは私の知では永遠に捉えることのできない「場所」である。つまり、そこは「幸と不幸」をともに超越した「場所」であり、もっと言えば「生と死」をも超えた世界である。
 そこには伴侶だけでなく、私自身も必ず往くことになっている。さらに言えば、そこに往かないひとは誰一人としていない「場所」なのだ。