映画「ちいかわ ―人魚の島のひみつ―」考

「ちいかわ」とは?と、スマホのAIで調べたら以下の言葉が出ていた。
「『ちいかわ』とは、イラストレーター・ナガノによるなんか小さくてかわいいやつ(通称・ちいかわ)という、SNS発の大人気漫画およびその主人公のキャラクターです。」と出てきて、次の「特徴と世界観」の項目には、「過酷な日常」とあり、「可愛らしい見た目の一方で、草むしりや討伐(危険なモンスターの退治)といった『労働』をして生計を立てるシビアで少し切ない世界観が描かれています。」また、「主な仲間たち」には「泣き虫だけど優しい主人公『ちいかわ』のほか、言葉が話せて明るい『ハチワレ』、自由奔放な『うさぎ』などが登場します。」また「メディア展開」には、「『テレビ』アニメ化のほか、映画化作品も大ヒットを記録するなど、国内外で大きなブームとなっています。」と出ていた。
 孫たちが「ちいかわ、ちいかわ」と騒いでいるので、何を騒いでいるのかと思って見てみたら、小さな可愛いぬいぐるみだったり、それに類するグッズであったりした。何か子ども向けの人気アニメだろうくらいに想像していた。キャラクターは、おそらく猫から連想される、小さくて可愛らしい生き物なのだろうとも思った。「ハチワレ」とは、猫の額の毛が八の字に見えるところからの命名だろう。しかし、いまそれが映画化され、こどもたちばかりでなく、大人の世界でもヒットしているというので興味を引かれていた。ちょうど孫が観たいというので、これ幸いと出かけた。やはり、古希を過ぎた老人が一人でアニメ映画を観るのには気恥ずかしさが伴う。
 確かに観客は、子どもばかりではなかった。大人やカップルなど多様な人々だった。映画のタイトルは、「ちいかわ ―人魚の島のひみつ―」という作品名だ。物語は、こう展開する。ちいかわたちは、鳥から一枚のチラシを手に入れる。そこには、ある島に行って簡単な討伐をすれば、欲しいものが好きなだけ、報酬やスイーツが何でも与えられると書かれていた。それで船でぞろぞろ外の仲間とともに島に向かった。島では島民たちが、ちいかわたちを大歓迎してくれる。その理由が徐々に明らかになってくる。その島にはセイレーンという人魚と二人の人魚の子どもが住んでいる。このセイレーンという人魚、まるで人魚には見えない。顔は招き猫みたいで、図体は鯨みたいに巨大で尾ひれが付いている。話す言葉も、可愛らしい。この映画に登場するキャラクターたちはどれもみな、ほんわかした温かいタッチで描かれている。でも、そこに展開するシナリオは、実にシビアなものだった。この作品は、一見すると子ども向けのファンタジーなアニメ映画のように見えていて、その内実は、「人間存在の罪」を題材にしたシリアスなものだった。
 人魚セイレーンには、もともと三人の子どもがいたが、そのうちの一人がこの島の島民の誰かに食べられてしまったことを恨み、犯人を捜そうと村を襲う。そこで島民たちは、ちいかわたちを島に呼んで、セイレーンを討伐してもらおうと考えたのだ。
 しかし、島民たちは誰も人魚の子どもを食べていないと言い張る。だが、その中の二人(カップルか)が食べていたことが後々分かってくる。この二人がなぜ人魚を食べたのかということにもやむを得ない理由があった。それは或る日、二人が小舟で釣りをしているとき、セイレーン親子がたまたま海で遊んでいて、二人の乗った船を壊してしまい、そのうちの一人が瀕死状態になる。しかし、セイレーンたちは、そのことにほとんど気づかない。なんと言っても、鯨のような巨体なので、「あれっ、何か当たった?」と言うくらいで、小舟ぐらい破壊しても何とも感じないようだった。
 二人の内の一人が瀕死状態なので、もう一人が、「人魚の肉を食えば永遠のいのちを得られる」という言葉を信じ、セイレーンたちのところへ行き、まんまと子どもの一人を殺してしまう。そして人魚を煮付けにして、瀕死の連れ合いに食べさせる。えええっ!煮付け、と思ったが、この煮付けが何とも美味そうに描かれていた。
 瀕死の相手はそれで復活するのだが、それを食べさせた片割れにも食べるように勧める。最初は拒否していたが、やはり、食べることになって、二人とも「永遠のいのち」を手に入れることができた。
 ちいかわたちは、個性豊かに描かれているのだが、島民たちは全員、顔も体も「土色」一色で描かれていた。もう少し、個性が分かるように描けばよいのにと思ったが、これも仕掛けなのかなと思った。つまり、個性が分かってしまうと、「人魚殺し」の罪は、この当事者たちだけに背負わせることになる。しかし、個性を曖昧にすることによって、この問題は「我々」の問題だと感じ取らせる暗示なのかも知れなかった。
 ひとは、誰でも最愛のひとが瀕死の状態になれば、最善の方法で、それを救おうとするだろう。ましてセイレーンの事故によって最愛の存在に死が突きつけられたのだから、セイレーンの子どものいのちと引き換えにしてもいいだろうという思いも湧いてくる。セイレーンは事故の責任をまったく意に介していないのだから。故意ではなくとも、業務上過失致傷くらいの罪はあるだろう。
 しかし、二人が人魚の肉を食べたことは、二人だけの秘密なのだ。そんなことが島民に分かってしまえば、この二人をセイレーンに引き渡し、村全体を守ろうとするかも知れないからだ。ところが、ひょんなことから、ちいかわが、二人の住む家で人魚のウロコを拾ってしまう。このウロコは間違いなく、殺された人魚の子どものものなのだ。ちいかわは、そのウロコを可愛い熊ちゃんのポシェットに静かに仕舞った。もしこのウロコが公になれば、どんなことが起こるか、量り知れないからだろう。
 まあ、ちいかわはそこまでは考えずに、ただ、何でこんなところにウロコが落ちているのだろうと思い、取り敢えずポシェットに仕舞っておこうと考えたのかも知れない。
 まあそれからしばらく、セイレーンとちいかわたちの争いの場面が続くのだが、とうとうセイレーンを追い払うことに成功する。それも「激辛カレー作戦」でやっつけるのだから、実にあどけない作戦だ。激辛スパイスカレーをセイレーンの口に放り込めば悶絶して美しい歌声で歌うことができなくなるだろう。歌うことが出来なければ、セイレーンから力を奪い取ることができる、という作戦だ。
 そもそも、セイレーンとは、ギリシャ神話に登場する人魚の名前で、美しい歌声で船乗りたちを誘惑し難破させいのちを奪う存在として有名だ。つまり、美しい歌声が魔力を持っているので、それを封じるためには激辛カレーを食わせることだと思いつくのだ。
 ただ激辛カレー作戦でカレーを食べたセイレーンはバタバタとのたうち回り、そのとき傍にいた島民たちをも巻き込んでしまう。何と、そのとき倒れた島民の一人に人魚の肉を食った証拠が見つかってしまうのだ。それを見たセイレーンは、「わかったー!」と叫びながら、その場から逃げていき姿を消した。
 これもアニメならではの描き方だが、人魚を食べたひとのお尻には単三電池のバッテリーが付いてしまうのだ。だから、電池が外れてしまうといのちを失ってしまう。でも電池を入れれば生き返るのだ。このバッテリーさえあれば永遠のいのちを継続することができるという描き方だった。永遠のいのちを「電池」で表現したところが、また面白い。
 セイレーンは、そのことも知っていて、ドタバタでひっくり返った島民のお尻にバッテリーケースが付いていたことを見てしまう。それで「わかったー!」と叫んだのだろう。
 セイレーンは、人魚を食べたものは永遠のいのちを手に入れることを知っていて、そいつを捕まえたら、小さな檻に入れ、深い海に沈めて、そこから永遠に出られないようにしてやるのだと可愛く呟いていた。声は愛らしいのだが、考えていることは、空恐ろしい仕打ちだ。永遠のいのちを手に入れるのは素敵だが、それが光も届かない深海の底の檻の中ということになれば、それこそ地獄の苦しみではないか。それも死で終わらない、永遠の苦しみである。
 それはともかく、激辛カレー作戦でセイレーンは、一応、島民を襲わなくなったようだ。一見落着したちいかわたちは迎えに来た船に乗って帰路に就く。船の甲板で、ちいかわはポシェットにしまっていた人魚のウロコを取り出し、海へと帰してしまう。ウロコは風に飛んでいって海原に落ち、少し輝きを放ってから消えた。ちいかわは、これでよかったのだろうかというためらいをこころに秘めていた。ちいかわたちの会話は、また「日常」に戻って、もとの生活をすることをお互いに語り合っていた。これでエンディングに向かうのだろうか。映画を見ている我々も、何だか気持ちにやり場のないものを抱えながら、スクリーンを見つめていた。これでよいのだろうか、これをハッピーエンドと言えるのだろうかと。
 しかし、映画はそれで終わり、エンドロールが流れ始めた。ずいぶん長いエンドロールだと思いながらスクリーンに映る制作者たちの名前を目で追っていた。もう終わったのかと思い、立ち上がって帰るひともいた。ようやくエンドロールも最後になり、これで終わりかと思ったら、何と、そこから再び、本編が始まったではないか。何という仕掛け!
 そこには、先ほどの二人が小舟を漕いで、別の小島に上陸し、洞穴で新しい生活を始めようとする場面だった。しかし、その次の場面では、セイレーンと二人の子どもが、大海原を、二人の跡を追って泳いでいくシーンが展開し、そこで映画は終わった。
 この最後のシーンを見て、ゾッとしてしまった。私の頭には、その後に続くであろうシナリオが浮かび上がってしまったからだ。セイレーンが「わかったー!」と叫んだのは、誰が子どもを殺したのかが分かったということであり、その犯人が別の島に移った跡を追っていき、最後には二人を檻に入れ深海に沈めるのだろうと。報復は、無限の連鎖を生むということまでをも連想してしまった。
 もしかしたら、あの島の島民たちは、寿命が尽きてすべて死に絶えてしまったのかも知れない。ところが永遠のいのちを手に入れた二人だけが、生き延び、セイレーンに気づかれないように、その前に別の小島へ引っ越そうとしたのかも知れない。ただ、最後には、罪の報いを受けねばならないのだろう。
 考えてみれば、この中に「悪人」は誰もいないのだ。セイレーンの事故も故意ではない。一方、二人もやむにやまれずのうえの人魚殺しだ。だから、誰かが悪いわけでもなく、誰をも責めることはできない。それであっても罪は残ってしまう。
 親鸞の語る「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』第13条)が、いまさらながら重たく響く。「ひとは、そのひとの力では避けることのできないような境遇に置かれれば、悪いとは重々分かっていても、どのような凶悪なことでも、それをやってしまう恐ろしい生き物なのだ」と読める。この凶悪性を私という存在は、うちに秘めているのだと、人魚を食ったものたちから教えられた。また、子どもを食い殺された母人魚が、その犯人に報復したいという思いも、同時に私の中に温存されているとも思った。
 この映画は、私たちの中に内蔵している罪を、ほんわかしたアニメ映画というオブラートで優しく包んだ作品だった。
 だから「たかがアニメ」映画であっても、決してハッピーエンドにしてはならないという原作者の思いが感じられた。老いも若きも、およそ人間であれば、このことを忘れてはならないという「罪」の問題を提起した作品だった。
 その意味で、映画を見終わったひとのこころの中に、「これでよかったのだ」と安心したい欲望を満足させてはくれなかった。逆に、いつまでも未完結のまま、人々のこころの中にわだかまり続けることのみを願った作品なのだろう。原作者・ナガノとは、「恐ろしき」人間だと直観した。