「いまここが浄土だ」の解釈

あるひとから質問がきた。

「よびごえ」122号では、「いまここが浄土だ」と書かれているが、『歎異抄』第15条では「今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならい」とある。また本願第11願では「必至滅度」とある。その中の「かの土」とは来世のように考えるが、「いまここが浄土だ」ということと矛盾するように思うが、これをどう考えたらよいのか?というご質問だ。

まず、これは大変よい質問だ。

以下が返信の文面。

「これを考えるは、まず前提として、あなたがどういう「時間」を生きているのかということを明確にしなければなりません。私は常識的な時間感覚を「通時的時間」と呼んでいます。それに対して〈真・宗〉が開く時間を「共時的時間」と呼んでいます。

「通時的時間」は昨日があり、今日があり、明日があると感じる観念です。これは信仰を知らないひとでも、一般的に「信じている」時間論です。この「通時的時間」を下敷きにして、「今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらく」と考えると、「かの土」とは、やがて未来にやってくる「臨終」という観念に結びつきます。いまはまだ「臨終」ではないのだから、「いまここが浄土だ」ということと矛盾するではないかと感じます。これが矛盾すると感じるのは、自分が「通時的時間」の意味空間に生きていることを表してしまいます。

しかし〈真・宗〉は、その「通時的時間」の他に「共時的時間」を開きます。「他に」というと正確ではありません。「共時的時間」が〈ほんとう〉の時間であり、「通時的時間」は人間が恣意的に感じ取っている、人間特有の「仮の時間」だと逆転するのです。

親鸞は『一念多念文意』で「臨終」を「いのちおわらんときまで」(聖典p534)と述べています。大事なことは「いのちおわるとき」と書いていないのです。「いのちおわる」ときとなれば、臨終で息を引きとる間際のことでしょう。しかし「いのちおわらんときまで」とは、「いまをも含めて臨終のときまで」です。大事な点は、〈いま〉も臨終と同質だという見方です。

親鸞にとって「臨終」とは、やがて未来にやってくる出来事ではなく、〈いま〉のことなのです。「臨終」の可能性は、次の一瞬です。死の可能性は、誰においても、次の一瞬以外にないのです。私たちの観念は、「臨終」を、後何年か先のことと考えますが、〈ほんとう〉の臨終とは、「次の一瞬」なのです。これが〈ほんとう〉の時間です。

人間は、「通時的時間」によって「臨終」を考えてしまうのです。それでは「臨終」は来世のことになってしまいます。親鸞が言いたかった「臨終」は、「共時的時間」です。つまり〈いま〉ここ・わたしが直面している時間です。

ですから、「いまここが浄土だ」という意味は、「次の一瞬」のことですから、まさに〈いま〉のことなのです。誤解を恐れずに言えば「浄土」というのは、「臨終」のことです。いつでも私たちは「臨終」に接して生きています。接しては生きていますが、「臨終」も「浄土」もいまだに経験したことのない出来事です。つまりそれは「浄土」に接して生きているのです。

ただ、それを「浄土に往生した」と過去形で語ることは許されません。過去形で語ってしまえば、まさに『歎異抄』第15条で問題にしている異議と同じになります。唯円は、「通時的時間や共時的時間」という言葉を知りませんが、この問題は直感していたと思います。信仰を「過去形」で語ったときに、それは魔物になると知っていたのでしょう。「過去形」で語ってしまえば、信仰の躍動感や瑞々しさがすべて失われます。「もう信心を得た」とか「さとった」と「過去形」で語ることは、信仰の死です。

決して「信心を得た」とか「さとった」と言わせないものが阿弥陀さんの本願です。人間は「過去形」で語りたいのです。そういう欲望をもっているのです。しかし、もし人間が「過去形」で語ってしまえば、阿弥陀さんと絶縁することになります。阿弥陀さんは、救われざる存在を救おうと日夜はたらいて下さっているのに、「もう私は信仰を得ました」、つまり「救われました」と言ってしまうのですから、阿弥陀さんの救済が不要になってしまいます。

「いまここが浄土だ」というのは、阿弥陀さんが日夜、私を救おうと生き生きとはたらいておられる場所の意味です。決して、「救われた」と過去形で語らせない場所。瑞々しく、躍動感をもって阿弥陀さんと出遇う場所。ここが浄土でなくてどこに浄土があるのでしょうか。

「よびごえ」にも書きましたが、「浄土には浄土という言葉は必要ありません」です。「浄土」という言葉がはたらく場所は、いま・ここ・わたし以外にはないのです。これが「共時的時間」の場所です。

この場所は、親鸞が「南無阿弥陀仏をとなうれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞して よろこびまもりたもうなり」(聖典p488)と歌っている場所のことです。親鸞にとっての〈いま〉とは、目にするものすべて、亡くなられた人々も含めて、それらの「諸仏」が私を救うために日夜はたらき詰めにはたらいて下さっている〈いま〉のことなのです。

私は「この世は私一人を救済する 阿弥陀さんの学校なり」と言っています。私は阿弥陀さんの教育を受けるために誕生し、養育され、阿弥陀さんの〈ほんとう〉の生徒になるのです。一生涯、教えられ養育されて、ようやく一人前の生徒になっていくのです。

「生徒になってしまった」と過去形で語ることを許さない、永遠の「かの土」に〈いま〉接しているのです。こんな瑞々しい躍動感のある信仰は他にありましょうか。

まだ、ご不明でしたら、またご質問下さい。南無阿弥陀仏」

「往生」が現生か臨終かという論争と同じ質の関心だった。それには自分がいかなる時間論をベースにして生きているかが問われなければならない。〈真・宗〉抜きだと「通時的時間」しか人間にはない。そこに「共時的時間」を開くのが〈真・宗〉だ。

まあ「二重国籍」を生きるのが「信心の行者」の坐りだ。あくまで「共時的時間」が〈真実〉であり、「通時的時間」は仮の時間として生きなければならない。